フィリップス・アリエス『〈子供〉の誕生』読書メモ

  • フィリップス・アリエス
    • 『〈子供〉の誕生』
      • 副題:アンシャン・レジーム期の子供と家族生活
        • みすず書房 1980年
        • ISBN978-4-622-01832-2

p26上
//死亡率の高かった時代には、ほんの一握りの人間しか人生のこの全段階を通過することができなかった//

p31上
//生後数ヵ月間の子供を称する語彙の不備は依然として続いていくのである。この語彙の不備は、19世紀以前には是正されることはない。後に、英語から baby という語が借用されることになるが、この語は16世紀・17世紀には学校に行く年齢の子供を指していたのである。これが子供にかんする言葉と観念の最後の段階である。こうしてそれ以後、「赤ん坊」(bebe※)という言葉に、生れたばかりの小さな子供はひとつの固有の名称を見出したのである。//
※bebe……2つのeに’が付加されている

p35上
//ほぼ12世紀までの中世芸術では、子供は認められていず、子供を描くことが試みられたこともなかった。//

p41上
//子供の生命を必然的な浪費と考える思想は、ようやく18世紀になって、マルサス理論の誕生と中絶法が実践されることで、消えていくことになろう。//

p44上
// 子供にたいし向けられるこの関心は、ジェンナーの種痘の発見の時期とほぼ見なされている人口学的条件の変化の時期よりも、1世紀以上も先行している。マルタンジュ将軍の書簡集などには、当時すでに家族が子供たちに予防注射をさせるようになっていたことが示されている。種痘にたいするこの配慮は以前とは別な衛生方法を奨励したに相違なく、また以前には一部では次第に上昇してくる出生率を高死亡率が相殺していたが、この死亡率を低下させたに相違ないある意識の変化を含んでいる。//

p47上
//子供だけが単独に描かれる肖像画の数が増大しありふれたものになっていくのは17世紀のことである。子供の肖像画よりずっと古い歴史を持つ家族の肖像画が子供を中心にした構図をとる傾向を見せるのも、また17世紀のことである。//

p47下
//子供期の発見は疑いなく13世紀に始まる。//

p50上
(17世紀)//その身体、その習性、その舌のまわらぬ喋り方を含めて、幼児期が発見されたのである。//

p52上
//子供の服装がもっと楽に体を動かすことができ、ゆったりとして着心地のよいものになるには18世紀の末まで待たねばならなかった。//

p61下
//かれはたびたび笞で打たれる。「手がつけられなくなって、力いっぱい笞で打たれる(食事を拒んだのであった)。鎮まってから、夕食の時間がすんだ頃になって大声で求め、夕食を摂る」。「食堂から出て部屋に戻ってからも泣き騒ぎ、長いこと笞で打たれる」。//
※「かれ」とはルイ十三世。この記述は2歳の頃と思われる。

p65上
//かれは依然として鞭打たれるのであり、娯楽にしてもほとんど変化がない。//
※ルイ十三世 7歳の頃

p68下
//子供期は大人によって放棄された習俗の宝庫となっていくのである。//

p95下
//かつては社会全体に共通して行なわれた遊びが庶民と子供の手のうちでのみ生き残っていくというこの図式//

p96上
//私たちは遊びがどの年齢にもどの身分にも共通であった社会状態から出発した。強調しなければならない現象は、こうした遊戯が上級階級の大人の間ですたれていき、逆に、庶民と同時に上級階級の子供たちの間に残されていくことであるイギリスでは本当のところ、フランスのように貴族が古い遊戯を見棄てることをせず、改変してしまった。かれらは近代的に面目を一新した形態で、19世紀にブルジョワジーと「スポーツ」を確立したのである……//

p102上
//無垢というものが、本当に存在するのであるという観念はもたれていなかった。//

p103下
//子供たちをみな一緒にひとつの寝台で寝せるという慣行は、当時それほど一般的なものだったのである。//

p106上
//基本的観念が押しつけられる。//

p106上
//およそ一世紀後になると、子供の無垢というこの観念は人びとに共有されるものとなった。//

p110上
//1666年に『子供のキリスト教教育論』の中で、ヴァレが「子供の教育はこの世で最も重大なことの一つである」と書いている理由なのである。//

p145上
//筆写書物の稀少さゆえに、主として記憶に頼ることが必要とされ、くどくどと反復し習得することを余儀なくされたのである。//

p153上
//この文法学と詩形論とはのちに人文学とよばれることになるものである//
※この文法とはラテン語のこと。ラテン語は会話ではすでに使われていなくて、書物を読むために必要だった。学問とはラテン語を読むということ。

p153下
//そしてこの子供は鞭を手にしている//

p157上
//こうして文法学の生徒たち、つまり8歳からせいぜい15歳まで//

p384下
//新石器時代の年齢階級、ヘレニスム文明にあった教育(パイデイア)などは子供の世界と大人の世界とのあいだの差異や移行を想定していたし、その移行は入門儀礼によって、あるいは教育のおかげで達成されるものであった。中世文明はこの差異を理解しないし、従ってこのような移行という観念ももたなかった。
 それゆえ、近世の初頭においての重要な出来事は、教育的配慮が再び出現したことである。この配慮は15世紀にはいまだ稀であったが一部の教会、法曹界、学問の世界の人びとを動かし、16世紀と17世紀になるとしだいにその数も影響力を増し、宗教改革の支持者たちと合流するのである。それはかれらが人文主義者であるよりは、モラリストであったからである。人文主義者たちは人生の期間全体にひろがる人間の教養ということに執着するにとどまっていて、子供たちだけを対象とする教育にはほとんど関心を払わなかった。//

2022.7.23記す

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