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民話(昔話等)再考

 1960年代の世相で、子育てを変質させた”事件”とは何だったのか。それを考えるヒントに民話(昔話等)の再考をしている。神宮輝夫『児童文学の中の子ども』(日本放送出版協会1974年)を読みながら、かつて30年以上前はこの種の本をありがたがってよく読んだ。”よい本”を選ぶテキストだった。しかし、再読して、今は感想がまったく違う。児童文学を業としている人たちには参考になるだろう。権威もあるだろう。戦前から戦後、西洋と日本、これらの比較と歴史を見誤らないために指南書として、じつは今読んでも確かにそうだろうと思う。だから、批判する対象ではないし、そもそもシロートの私が批判できるものでもない。過去の〈子ども中心主義〉を適切に批判、反省もしている。子どものための本はどうあるべきかの視点も間違っていない。
 1960年代頃から最初は「登校拒否」と呼ばれのちに「不登校」と呼称が変えられた。その学校教育(または「学校」)のありかたが不登校の原因のひとつになっているように、子どもにあたえた文化に足りないものがあったのではないか。私は、このことを考えるようになった。
 〈創作〉物語・〈創作〉絵本等は、口承文芸から作者が学びそのエッセンスを〈創作〉にどう活かすのか、という位置づけで私は理解していた。そのように理解していたのに、ジャンル・カテゴリーのひとつとして認識していた。この議論はむずかしいので言い直すと、たとえば、「日本のむかしばなし」「外国のむかしばなし」「日本の創作ものがたり」「外国の創作ものがたり」「知識の本」というカテゴリー分けをし、これらは並列の関係で、子どもに与える場合、点数としてバランスを考慮するだけだった。これは間違い、失敗ではないかと気づくに至った。深く反省する気持ちになっている。
 戦前は、日本人にとって、本は必需品でなかった。〈衣食足りて〉の言葉があり、本はなくても困らなかった。大正デモクラシーの文化活動の恩恵を受けたのは富裕層だった。庶民は語り部から「語り」を聞き楽しんでいた。語り部のおばあさんやおじいさんが孫に、いろりをかこんで、こたつに入って、話を聞かせた。〈大家族〉が前提だった。
 戦後、復興と生産性拡大、所得増大が優先され、大家族は崩壊し核家族が急速に社会化した。グリムが産業革命後社会で活躍したように、日本でも語りが絵本となり、所得の一部は子どもの文化を支えた。その脈絡においては間違わなかったかのようにみえる。
 でも、違った。創作ものを超えて、語り部の役が消滅したぶん、もっと大量に昔話絵本が創作もの以上に必要だった。いや、そうではなく、語り部ほどじょうずでなくてもよいから、幼児には語って聞かせることが必要だった。読み聞かせ・語り聞かせの必要は、関係者には十分周知されているが、絵本を頼りに、その実践が衣食と同じほどに実践されるべきだった。
 民話(昔話等)を改めていろいろなものを蒐集して読むと、原話に近いからか、けっこうむずかしい。子どもの生活をとりまく自然環境や生活文化が様変わりしている。私は小学2年生以下を「幼児」とみているが、幼児にはむずかしい。小学3年生から4年生乃至5年生(8歳から10歳にかけて)に世のわたりかた・生きかたを伝承するために語り継がれてきたのでは、と思うようになった。幼児(5歳以上)には理解できそうな話をするにしても、それ以上に必要なことは、野山で遊び、遊び疲れて夜は早く寝る、それで十分だと思う。

小澤俊夫編『日本人と民話』(ぎょうせい 1976年)p34以降「口から直接耳へ入れる伝承方法こそ大切なもの」の見出しを掲げ──

──運動論みたいになりますけども、これが日本の民族の大事な財産なんだというふうに思えたら、親たち、大人たちは、周囲の子どもたちになるべく自分で直接話して聞かせる、ということをやってほしいと思いますね。──小澤俊夫の談。

──語りを持つことと持たないこととは、大きく言うと日本人の芸術的創造力というものが今後どうなっていくかという分かれ目になってくるでしょうね。教育者や世のお母さん方に、ここはひとつ踏ん張っていただきたいと期待しているのですが。──稲田浩二の談。

──へたとかなんとかいうことよりは、子どもをどう見るか、子どもにどういうふうに愛情を注ぐかを基本にしてお母さんが語るというのが一番よい伝承の方法であり、いまからも生きていく民話の生命みたいな気がするんです。──武田正の談。

──お母さんだけといわずお父さんも。(笑い)──小澤俊夫の談。

2019.9.7記す

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