いのちのかたち ── 擬育20

 小川も大河もそのもとを遡れば「泉」にゆきつく。「泉」は、その源を求めても、その”もと”を見届けることはできない。始原は湿り気(しめりけ)であって「流れ」ではない。水たまりでもない。天から降ってきた雨や空気中の水分だろうが、それが泉の”もと”でもある。

 無数の精子と1個の卵子が出会うさまはこの泉に似ていないだろうか。小川・大河に相当させ、子ども・成人をみるとき、DNAや細胞の説明ではなく、泉に喩えてはどうだろうか。精子と卵子の出会いは生命の誕生であって泉とは違う。出会い後の、あかちゃんの体内に湧き流れるものは、泉のごとくその始原を求めることはできない。しかし、その泡沫な水は、やがて流れとなって目に見える。
 目に見えるものを育てるのか、まだ見えぬものを育てるのか、禅問答になりそうだが、「泉=いのち」と捉えたとき、私はその見えぬものを見たい衝動にかられる。そこで今、ひとつ発見した思いをしている。それは「いのちのかたち」。「かたち」となれば見える! そう思ったのだ。
 3歳児以下は、野山・田園を歩くと石ころや棒切れを手にする。4歳児になると加えて、どんぐりをひろったりや花をつむ。5歳児はさらに加えて、ザリガニやバッタなど動くものに挑戦する。それらは発達に応じた環境への表現とみていたが、それら、石ころ・棒切れ・どんぐり・花・ザリガニ・バッタは「いのちのかたち」であって、彼らはいのちをつかもうとしているのだ、と気づいた。
 年長児(幼児)があかちゃんを見て、「かわいい」と言い、抱っこしたりなでたりさわろうとする。犬や猫をなでる。その行為は「いのちのかたち」をつかもうとし、ふれようとしているのではないか。そして、ふれられるあかちゃんにとっては、それが泉の”もと”のひとつになっているのではないか。
 あかちゃんが、食べものをつかんで口に入れる。口に入れるものは食べられるものとは限らないが、つかむさまは「いのち」をつかんでいることになるのだろうか。食べられるものとそうでないものとを、やがて見極める。子どもの手のなかにいのちがあるのなら、子どもを見る目が変わる。

(参考)いのち の かたち for child

2019.11.12記す