五感と直観と霊性 ── 擬育22

五感は、〈直観〉〈霊性〉と切り離せない。

 新生児は五感で生きている、と私は考えている。〈五感を鍛える〉という言い方がよくされるけれど、母の声は胎内にいるときからよくわかっているという。生まれたばかりのあかちゃんは目がよく見えてないらしいが、おっぱいは嗅覚でさがすらしい。裸で生まれてくるわけだが、あかちゃんの体内には褐色脂肪細胞がありこれの働きで体温が調節されるという。裸足(はだし)だと寒かろうと思われたりするわけだが、生まれながらにして体温調節機能があり、五感のひとつ触覚を生かすには靴下は不要、ということになる。
 だから、〈五感を鍛える〉のではなく、生まれながらにして持ちあわせている五感を、〈失うことなく〉〈五感を育てる〉という言い方のほうが適切でないかと私は考える。
 レイチェル・カーソンのいうように、〈「知る」ことは「感じる」ことの半分も重要ではない〉とあるように、この脈絡でとらえる場合、もっともっと「感じる」ということを〈五感を鍛える〉というのであれば、まさにそうだろうと思う。

 「第六感」を『新明解国語辞典第三版』で調べると、──〔五感の働き以外によるという意から〕直観的に何かを感じる心の働き。勘。──とある。第六感そして直観(「直感」の表記ではない)とは何だろうか。科学的でないにしろ、ピンと来るひらめきを認める人は多いと思う。すべての人は……と、言ってよいかもしれない。〈五感を鍛える〉ということは〈直観〉を期待してその訓練に相当するするのかもしれない。

 キリスト教保育では、「神様に見守られて」のフレーズが枕詞になる。幼い子どもは、母に父に家族に、保育者に、そして、神様に見守られて育つ。それだけではない。今からの楽しみも、今日楽しかったことも神様の働きがあればこそ実現している。ごはんをいただくときもその実りに感謝する。他の宗教保育でも同じことが言える。無信仰(無宗教)と主張している人たちも、一人では生きていない。かかわりのなかで何かに感謝することはあるだろう。科学的ではないかもしれない。論証は困難かもしれない、が、たとえば埴輪(はにわ)を見て霊性が伝わってくるように、巨樹に神聖や畏敬の念を抱くように、世に生を受けてここに自分がいることを悟ること、これも必要ではないか。

 幼児と手をつなぎ、それを愛らしいと感じるとき、〈五感と直観と霊性〉をひと組とし、切り離せないものと受けとめているからではないかと私は思う。五感は独立しているのでなく、それらを鍛えることで直観を生じさせる。霊性で得られる心の安らかさは五感と直観を保障する──と考えられないだろうか。

(参考:同じ主題で、こちらも→)五感と直観と霊性

2019.12.10記す