なぜ、どんぐりを拾うのか?── 擬育26

 ここしばらく数回前から、家庭での子育てから私の保育または子育ての考えに偏ったように思うので、擬育(育てるは似せること)を提案した機会に戻したいと思う。


 A保育園を門から出て目的地の田園に向かう。その距離およそ1キロを30分かけて歩く。車と交叉するところでは必ず「右見て・左見て・もう一度右見て、そして音(車が近づいてくる音など)は?」と子ども自身が個々に確認して歩く。歩道のない道を歩いているとき、並行して走行してくる車やオートバイなどを見届けたときは、列が多少乱れていても動きを止め車などが過ぎ去るのを待つ。
 子どもの集団は20人前後。2人ずつペアになって手をつなぐ。5歳児は前との間隔を空けずに歩けるし、空けばつめようとする。4歳児は間隔を空けずに歩こうとするもののC君の前やDちゃんの前は空きがちで、空いてもなかなかつめることに意識が向かない。3歳児は偶然に列を為して歩いているというふうで、指示しないと空いた間隔はそのままだ。5歳児も4歳児も3歳児も、黙って歩いているわけではない。おしゃべりが盛んだ。
 では、C君やDちゃんの前がどうして空いてしまうのだろう。どんぐりを拾うからだ。途中の公園や街路にどんぐりの木があって、道路にはみだしているとたくさんの実を落としてくれる。それを拾う。
 なぜ、拾うのだろうか。どんぐりが好きだから。なぜ、好きなのだろう。同じ問いになる。①ふだん見ないから(つまり珍しいから) ②(やはり)どんぐりが好きだから(なぜ?) ③おとなと比較して子どもは地面に近く拾いやすいから ④丸いから ⑤集めたいから。棒切れもよく拾う。小石を拾うこともある。
 想像するに、どんぐりは丸いからだと思う。指でつまみ上げ手のひらで握ると気持ちいいからではないか。1つだけでなく2つ、3つと拾う。歩いている最中だから、集めているのではない。でも、なにかしらつかんでいたい。
 唐突だが、田中正造(という人物についてはここでは語らない)は臨終にあたって、携帯していたのは、聖書と小石だと伝えられている。おとなの小石と、子どものどんぐりに同じ意味があるのでは、と思う。棒切れは次回に。

2020.1.16記す