間主観性(かんしゅかんせい)って何?

  1. 自己と他者
  2. 間主観性(かんしゅかんせい)って何?
  3. ミラーニューロンの発見
  4. 共感する、とは?

上のリストは、ページ内の項目にとびます

  • 文献1
    • 『うぬぼれる脳』NHKブックス 2006年
      • ジュリア・ポール・キーナン他(2003年)
  • 文献2
    • 共感脳』麗澤大学出版会 2016年
      • 副題:ミラーニューロンの発見と人間本性理解の転換
      • クリスチャン・キーザーズ
  • 文献3
    • ミラーニューロンの発見』ハヤカワノンフィクション文庫 2011年
      • 副題:「物まね細胞」が明かす驚きの脳科学
      • マルコ・イアコボーニ(2008年)
      • 塩原通緒/訳
      • 別途同じ内容で新書版あり

1: 自己と他者

 「自己と他者」または「他者と自己」、哲学にふさわしいテーマのようで、これを書名にしたものや内容とした本は多い。俗に「自分さがし」と言ったりするが、ここでいう「自己」や「他者」は、簡単なものではなさそうだ。

「自己」とは?

 文献1の主要テーマは「セルフ・アウェアネス self awareness」で「自己覚知(自己に対する気づき)」と訳をつけている p4。自己に対する認識と言ってもよいだろう。這い這いしているあかちゃんに手を差し出して「おいで」と手招きすれば、ニッコリして力強く這ってくる。かわいい。おそらく親はあかちゃんの名前を呼んでいる。でも、あかちゃん自身はまだ自己に気づいていない。鏡に映し出されている”自分”を見て”自分”と気づいたときを、自己に対する気づきとこの本では記されている。それは、生後1年半を過ぎてから2歳前後ということだ。

4歳になって、「他者」の心を読む

 3歳まではことごとく失敗するが、4歳の誕生を迎えると「他者」の心を読むことができるようになる。これを「心の理論」という。そして、他者の心を推測できることが、「自己」の存在証明になる。言うなれば、他者が存在することでもって、自己が存在する。自己意識が優先して他者を気にする、と思いたいが、じつはそうでない。逆なのだ。有り得ないことだが、他者がいなければ自己もない。

他者先んじて自己生ず

「死」の意味と「他者」

 文献1によれば、自己を覚知するのは、正確にはまだよくわかっていないとしながらも、脳の右半球その前部と見当づけている。だから、その部分を損傷すると、自己を消失することがあるという。死に至らずとも自己を喪失する。他者の存在は消えない。
 しかし、これは例外であって、多くは、みずから自己を喪失することで他者を認識できなくなる。言い換えれば、他者は自己とともに存在する。自己が消えたあとも他者は存在し続ける。

もう少し考えて……

 つまり、突然の不幸に見舞われてはどうしようもないが、終静(しゅうせい)を思うとき、いま自分があるのは、他者の存在があったからだ。──ということは、生きてきた今までをやりっぱなしにしておかないで、いくらかでも後生に遺し伝える時間をもったほうがよい、ということかもしれない。

(参考)感情をよむ、相手の気持ちをよむ

2: 間主観性(かんしゅかんせい)って何?

 俗に言うところの〈自分さがし〉は、おとなの迷い。この世に生を受けたばかりのあかちゃんに〈わたし〉は存在しない。”生みの親”という表現は間違った観念をまき散らすのでいきなりだがこれを否定した上で、あかちゃんを抱いている多くの場合、その母が、あかちゃんと一体を為す〈わたし〉なのだ。
 母との一体から別れ、〈他者=あなた〉との違いに気づき同時に〈自己=わたし〉を認めるようになるのは、生まれてからかなり後で、3歳の誕生日を待つことになるようだ。
 ということは、この世に生を受けてから2歳満了までに育つ環境、人間関係はもとより、あらゆる環境(犬、猫、家畜、風、樹木、聞こえてくるもの、さわるもの、温かい食べ物、着せられる衣服、雨の音、日射し、……無数にあるだろう色々)が発育の基礎をなす。


 フッサールは、他人知覚は「対の現象」のようなものだと言っていました。〈略〉 他人知覚においては、私の身体と他人の身体は対にされ、いわばその二つで一つの行為をなし遂げることになるのです。〈略〉
 幼児がまだ自己自身と他人との区別を知らない状態のときでさえ、すでに精神の発生が始まっているのだとすれば、他人知覚も理解できることになるのです。〈略〉
 幼児の経験が進歩するにつれて、幼児は、自分の身体が何といっても自分のなかに閉じこもっているものだということに気づくようになり、そしてとくに、主として鏡の助けを借りて獲得する〈自分自身の身体の視覚像〉から、人は互いに孤立し合っているものだということを学ぶようになります。〈略〉
 こうした考え方は、いろいろな傾向の現代心理学に共通のものであって、たとえばギョームとかワロン、ゲシュタルト心理学者、現象学者、精神分析学者などにも見られるところです。

  • 上記── メルロ=ポンティ・コレクション3「幼児の対人関係」みすず書房 2001年 p44-46
  • 二つで一つの行為をなし遂げる」は「間主観性」の説明となる。

3: ミラーニューロンの発見 ──1996年

 ミラーニューロンとは、1996年に発見された神経細胞の一種である。発見者はイタリアの神経生理学者ジャコモ・リゾラッティらである。基本的な機能は、自分が運動する時にも、他者の同様の運動を目で見たときにも活動するというものだ。──文献3 p338

  • 『ミラーニューロンの発見』 文庫版p192
    • 残念ながら、西洋文化は個人主義的、唯我論的な考え方に支配されていて、その枠組みのもとでは自己と他者との完全な分離が当たり前のようにできると思われている。私たちはその考え方にどっぷり浸かっているため、自己と他者とが相互依存にあると言われても、直観的に違うと思うばかりか、聞き入れることさえ難しい。この支配的な見方に対して、ミラーニューロンは自己と他者とを再びつなぎあわせる。その活動は、人間の原初的な間主観性を思い起こさせる。それはすなわち、赤ん坊と母親、赤ん坊と父親の相互作用に著され、その相互作用の中で発達する、赤ん坊の初期の相互作用能力だ。ミラーニューロンはこの最初の間主観性的な時期に形成され、この間主観性によって育まれるのだろうか? 私はそうだと思う。一部のミラーニューロンが生後ごく初期から機能して、最初期の相互作用を助けている可能性は高いだろうが、人間のミラーニューロンシステムの大半は、その相互作用の時期に形成されるものだと考えている。赤ん坊の脳内でのミラーニューロンの形成は、とりわけ相互模倣のあいだになされているのではないかと思われる。これは笑いを例にして述べたとおりだ。ミラーニューロンが本当に母子間や父子間の協調活動によって形成されているのなら、それらの細胞は単に自己と他者の両方を具現化しているだけでなく、赤ん坊が独立した「私」の意識というよりも、むしろ未分化の「私たち」(母親と赤ん坊、父親と赤ん坊)の意識をもっているときに、その具現化を始めていることになる。だからこの時期の赤ん坊は鏡像認識課題に合格できないのだ。しかし、この最初の「私たち」の意識から、赤ん坊はゆっくりとではあるが着実に他者を知覚するようになる。その知覚のしかたは自然で、直接的で、明白で、複雑な推論をいっさい必要としない。そしてやがては正しい自他の意識が築かれていく。このときに、それを助けるのが特殊なタイプのミラーニューロンであり、私はそれをスーパーミラーニューロンと称しているが、この細胞については第7章で見ることにしよう。ともあれミラーニューロンの活動は、その後の一生を通じて、この自己と他者とが同居する「私たち」の意識を決定的に表すものでありつづける。
  • ミラーニューロン
    • 運動と知覚は「別」ではないらしい
  • 文献2 p10
    • ほとんどの子どもは、7歳までに他者の感情を言い当てる能力を十分に発達させています

4: 共感する、とは?

  • 「母親の共感」──文献3 p159
    • 幼児の内面の状態をミラーリングする母親の能力は、おそらくさまざまなかたちで表れるだろう。
    • ※(山田利行の見解)哺乳類で「うぶごえ」をあげるのは人間だけのようで、「うぶごえ」は母親の感情チャンネルにスイッチ・オンするのだろう。

2020.12.26記す