||||| 関 曠野「模範的個人」|||

Home > 「こども」とは、だれか?

小谷敏編『子ども論を読む』(世界思想社 2003年)
関 曠野:分担執筆p234~253「教育・市場・平和」
p248
//ゆえに伝統的な社会においてはキリストや孔子のような聖なる人間が模倣さるべき生の不変の模範とされ、そうした理想は既成の大人の社会の鋳型に子どもをはめ込もうとする保守的、権威主義的な教育に見合ったものだった。//

p249
//近代的な学校教育の本来の課題は//……//個人主義を補完し倫理的一貫性をもった思想や態度としてそれを完成させることにある//

p249
//近代法の究極の理想は、個人の自由が共同体の発展の契機でもあるような生産的な平和であり、そしてこの理想は、たんなるエゴではない模範的個人の存在を前提にしているのである。//※「模範的個人」は「リーダー」と読み換え可能か?

p249
//〔社会の〕危機を一つの倫理的な可能性に転化させようとする教育の試みが紛争に引き裂かれた世界に平和と秩序をもたらすという認識がポスト冷戦の世界の共通の認識になりえたかもしれない。だがそうした転機は生じなかった。//

p246 //教育とは危機に対する社会の応答//

p246
//個人は//……//絶えず相互に模倣し合う存在//

p247
//基本的な必要がすでに充たされた豊かな社会では欲望も模倣の対象になり、フランスの社会思想家ルネ・ジラールの言う「欲望とは他者の欲望である」ような状況が生じてくる。//

p247
//市場は、平和ではなく戦争をもたらす。近代世界に秩序と平和がありうるとすれば、それは教育の成果でしかありえない。//

p247
//教育本来の課題は、長らく進歩への信仰によって覆い隠されてきた。その点では進歩への信仰の崩壊に伴う今日の教育の危機は、近代教育をその原点に立ち返らせるものと言うことができよう。//

p247
//人間において集団形成の本能の欠如を埋め合わせているのは他者を模倣する性向である。個人は自己完結した理性的存在などではなく常に他者と相互に模倣し合っている〔※1〕。//
※1……「子どもの遊び」はまさにこのことだろう。

2026.4.22記す

© 2026 ||||| YAMADA,Toshiyuki |||, All rights reserved.