||||| 学校の(教育の)危機:関 曠野 |||

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//教育の危機が語られるようになって久しい。しかし教育の危機とは何を意味するかについての論者たちの立場は驚くほどばらばらである。//……//議論が拡散したままの状態でツギハギ細工の教育改革をやったりすれば教育をめぐる混乱はさらに拡大するだけだろう。つまり今日の教育の危機とは、教育の理念の危機なのである。//
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//そして理念を見失い混迷する学校教育制度に──表面上はおとなしく就学している部分も含めて──子どもや若者がすでに見切りをつけ背を向けている現実こそ、真の意味での教育の危機でなくて何であろうか。//

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//かつてイリッチ〔『脱学校の社会』東京創元社1977年〕は、学校は特有の象徴や儀式に支えられた制度であり、「隠れたカリキュラム」により人々を産業社会の諸制度に依存しなければ生きられない消費者として養成していると断じて先進国の学校制度を批判した。リンドン・B・ジョンソン米大統領の「偉大な社会」計画に代表される戦後型福祉国家が爛熟した1960年代に登場した彼の学校批判は、この福祉国家のひそかに抑圧的な性格を攻撃するものだったと言えよう。人々は諸制度とその規律に従順に服従する訓練を学校で受ける代償として豊かな社会への入場券を与えられた。この国家体制の基礎になっていたのは、倍々ゲームの高度経済成長によって恵まれない階層にも多少は富のおこぼれに与らせた戦後のケインズ型資本主義だった。そしてイリッチの批判にもかかわらず当時の社会にはこの体制への広範な合意が存在し、それは「進歩への信仰」の形をとって正当化されていた。「進歩」とはたんなる技術革新や経済発展を指す言葉ではなく、そうした革新や発展が正義、自由、平和といった究極的な倫理的価値の実現につながるはずだという一種の神学的な信仰だった。そして学校はこの進歩の神学を明示的、系統的に実践する場所になるという使命を体制から与えられていた。学校はその象徴や儀式によって進歩の神学を実践する場になることで体制の再生産を確実なものにし、またその限りで俗なる社会と区別された非日常的で特権的な聖なる空間とされていた。//

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//ゆえに今日の教育の危機は学校の内部に起因するというより、体制への合意が崩壊し進歩への信仰を喪失した先進国社会の制度全般に生じている危機の一環をなすものと見た方がいいだろう。その意味では子どもや若者が学校に背を向ける様は、政治家やマスコミに不信感をつのらせる市民たちに重なっている。//
※投票率の低下、民主主義の危機へとつながっているということだろう。

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//こうした状況の中で社会のニーズに有効に応えると称して公立校における教育の自由化・市場化を推進することは、すでに打ちのめされている低所得層の子弟にさらに社会ダーウィンニズム的な優勝劣敗の論理をたたき込むことにしかならないだろう。//

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//だから教育の市場化は所詮部分的周辺的な試みに留まるであろうし、それが教育自由化論などまともに論ずるに価しない理由である。そして教育の危機を浮き彫りにしているのは、むしろ教育の市場化に反対する議論の方である。問題は、教職員組合その他に見られる教育の市場化に反対する議論の内身のどうしようもない空疎さなのだ。//

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//彼らのために教育改革が議論されているはずの若者は、教育自由化論と公教育擁護論のいずれにも背を向けているのである。//

2026.4.23記す

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