||||| 関曠野「兆民と政治的なるものの超克」|||

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井田進也/編『兆民をひらく』光芒社 2001年
+ p18-46
+ 関曠野「兆民と政治的なるものの超克」

p21
//明治政府のこのでたらめさはそもそも維新が一部の野心家による思想も理念もないクーデターにすぎなかったことに起因している。//

p23
//大革命を決行しなおその余震が続いている国に留学したために、兆民はフランス革命についてきわめてバランスのとれた見方を身につけることができた。//

p23
//兆民は恐怖政治で名高いロベスピエール、サン・ジュスト、マラーを常に狂人や極悪人扱いしており、ボルシェヴィキの元祖に対するこの態度からしても兆民を左翼の思想家とすることはできない。//

p23
//兆民の著作を少しでも読んでみれば、孟子的民本主義が彼の思想の下地になっており、その地盤の上で西洋思想が受容されていることがすぐに見てとれる。//

p24
//人が自分の思想や価値観の普遍性を改めて確信するのは、異文化の中においてであろう。//

p27
//「政治的なるもの」を固有の領域として成立させるものは友と敵の区別であり現実的可能性としての戦争がその前提をなすというカール・シュミットの見解に従えば、日本の武士は典型的な政治的人間 homo politicus だからである。それゆえに日本は源頼朝以来ずっと政治的人間に支配され、開国によって徳川期の凍結状態が終るや再び状況は政治化し、そしていずれ士族民権が凋落したところで「政治的なるもの」は消滅することはない。そして兆民にとっては立憲主義とは、政治的なるものをより高次な目的に手段として従属させると共に、一定の規約と領域設定によって政治的なるものが発動する可能性を限定することにほかならなかった。その意味で、政治的なるものは超克さるべきものだった。//

p28
//兆民は創刊直後の自由党の機関紙「自由新聞」に書いた「政党の論」でそれを論じている。政党には自然の党派と私意の党派の二種類があると兆民は言う。自然の党派の本領は真理の追求にあり、その模範となるのは絶えず複数の学説を戦わせることによって知識を発展させる自然科学者の共同体である。//
p29
//古来博物の君子ガルワニー、ニュートン、コーペルニクらの学術において偉大の功を建立せし所以の者は職としてこれに由るなり。けだしその互に相競ふて自らその真理とする所を主張するに当り、我れと意見を同くする者相聚りて一党をなす、これ即ち学術の党派なり。政治の党派もなほかくの如きなり。//……//こうして兆民は、立憲国家における政党政治を自然科学の研究に比すべき社会の学習プロセスとみなす。//

p30
//民権論とは学習能力論であり政治教育論である。それは、すべての人間に均しく政治的な学習能力がある以上、政治は社会の学習プロセスであるべきだという論理である。//

p39
//実業家になるや兆民は大好きな酒を一切止め、弊衣破帽で有名だった服装もまともになった。生来政治的人間ではなかったとはいえ、令名を馳せた言論人の地位までも未練もなく捨てて思想上の結論を実行に移した兆民の見事さには、私は感嘆の念を禁じえない。//

p45
//兆民にとっては、政治的なるものが終るところで感性の充足と発展が始まるのであり、正理による政治の超克はそうした可能性を拡大するための手段にすぎなかった。理学士兆民は、究極的には感性の人だったのだ。彼は美的なものに敏感だった。言論人として政争の渦中にある時にも、彼は好んで文学を論じた。ある意味では兆民は、行為の道徳的美しさという観点から終生明治国家を批判し続けたのだと言ってもいい。//

2026.4.28記す

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