野本三吉『近代日本児童生活史 序説』社会評論社 1995年
p14
//子どもにとっての戦後史というのは、実は「子ども集団の崩壊過程」ではなかったか//……//子ども集団の崩壊という現実の起源を考えていくと、どうしても日本の近代化過程へとぶつかってしまう。単純化していえば、学校の成立という事実と、子ども集団の崩壊となんらかの関係があるように思われてならないのであった。//
p17
//学校を中心とした文化や価値観が子どもや親を身動きできぬほどに縛りつけ、子どもたちは、学校を体全体で拒否し始める。そして、その巨大な動きは、学校と異なった場を創り出し、異質な生活の空間と関係を創り始めてきた。//
p65
//「病気といってもたくさんあるわけですけれど、どういう病気で死んだ子どもが一等多かったかと見てみると、麻疹(はしか)と疱瘡(ほうそう)のふたつなのです。疱瘡は1977年10月のソマリアでの流行を最後に地球上から根絶されましたし、麻疹のほうは時折り小流行を繰り返しているようですが、現代の医学はそれを怖るるに足りない病気に変えてしまっています。
しかし、後期封建社会までの日本の子どもたちは、15年くらいの周期で繰り返すこのふたつの伝染病のために数えきれぬほど命を失ってきたのでした。」(『日本子育て物語──育児の社会史』上笙一郎著、筑摩書房255頁)//
p69
//こうした、子どもたちの病気や死との格闘を思う時、生きのびてきたこと、つまり成人したということの意味は、きわめて大きいのだとあらためて感じてしまう。//
p82
//学校が成立する以前は、子どもたちの日常生活はまったく自由であった。しかし、学制発布以後は、町を歩いていれば、「徘徊する者」として警察官の取り締りにあうことになったのである。//
p90
//明治新政府は、全国に5万3千余の小学校を創設する計画を立て、その実現のために、各県に対し、強い調子で小学校開設を訴えかけていった。
長野県でも、約8百余の小学校が開設され、全国でも知られた教育県の名に恥じず、就学率は60%、全国第1位であった。//
p104
//日本の近代化、産業革命は、世代継承すべき子どもたちを、一つの消耗品として、産業構造の中に組みこみ、抹殺したのである。//
p116
//日本の近代化は、第一次産業である農業や漁業、林業などで働く人々を都市の工場労働者として吸いあげ、使い捨ててきた歴史であり、子どもたちもまた、その労働力として酷使されてきたのである。
こうした明治期の産業労働の実態を描いた横山源之助の『日本の下層社会』(岩波文庫)には、年少労働者の様子を克明に記した文章があり、第三編(第五・燐寸工場の職工)はよく知られている。//
※引き続き引用されている「燐寸工場の職工」について、同書1985年改版と照合したところ、改版が判読しやすいので、これを採用する。なお、改版では「第三編 手工業の現状/第二章 阪神地方の燐寸工場/第五 燐寸工場の職工」。
改版p162
//職工は箱詰あるいは軸並を1個もしくは2、3個を仕上げおわるごとに検査係の下に持ちゆき、検査首尾よく済めば1個につき1枚の札を得るなり。総じていずれの燐寸工場においても見ることなるが、他の工場に比して細民の児女多く、しかして職工に幼年者を見るは燐寸工場なりとす。職工の過半は10歳より14、5歳の児童なり、中には8歳なるものあり、甚だしきは6、7歳なるも見ること多し。特に軸並職工の如きその7、8分までは10歳未満、世間の児童は学校に入りいろはを習うに苦しめるを燐寸工場の児童は軸並枠の間に挟まり、左右をきょろきょろ眺めながら軸木を並べつつあるなり。けだし日本の各種工業のうち、幼年職工を使役すること多きは燐寸工場と段通(だんつう)工場の二者か。//
p141
//明治時代においては、学校よりも、家庭や地域での生活、労働の現実のほうが、はるかに生き生きとしており、子どもたちへの影響力も大きかったということは、明確になってきたような気がする。//
p142
//親から子どもへと受け継がれていく「世代間継承」が教育の本質であり、こうした行為がくり返され、一つの歴史が形成されているにちがいないという認識がぼくにはある。//
p143
//近代化のプロセスの中で、子どもたちは、かならずしも親の職業を継がなくても生きていけるようになってきた。
自由に職業や生き方が選択できる時代を迎えたのである。そのことは、実に大きな意味を持っているのだが、同時に、親から子への具体的な「世代間継承」を希薄化し、徐々に子どもたちに、根底的な生きるための根っ子の部分をあいまいにしか伝えられないという結果にもなってきてしまったように思われてならない。//
p144
//家業を継ぐ、親の生き方を継ぐというスタイルから、国家に役立つ人間になるという大きな価値転換が、ここには内包されていたような気がする。
手工業、肉体労働を中心とした、一種の口伝、相伝、体験を通して受け継がれてきた個別の労働形態は、やがて兵士やサラリーマンという巨大な労働者群に吸収されてしまうことになるのだが、ぼくは、もう一度、近代化のプロセスで破壊されていった、親から子への教育の過程をたどりかえしてみたいという思いが強くなっている。//
p149
//親方の門に入る年齢は、だいたいに、12、3歳頃とされている。//
p158
//こうして両者〔前代教育×近代の教育〕を対照してみると、農民や職人、商人などの生活様式の中から生み出されてきた民衆教育の方法論が、近代の学校教育の中で一挙に平均化され、画一化されてきていることがよくわかる。それまでは、一定の共同生活体の中で、子どもたちは群れの一員として育てられ、共同体そのものが一つの巨大な教育、福祉機関として存在していたと考えられるのである。
こうした共同体の中で暮らしていれば、人は生まれてから死ぬまで、安心していられた。そして、こうした生活の中で子どもたちは、何かになるために存在していたのではなく、むしろ、生活共同体の一員として受けとめられていたので、日常の生活の中で、見聞きしながら、言葉も仕事も社交の方法も覚えていったのであった。
さらに、遊び仲間や子ども組の中で、社会生活のルールや秩序を身につけ、ごく自然に一人前の「おとな」になっていったと考えられるのである。
これに対して、近代の学校教育は、子どもとおとなとを明確に分離し、子どもをおとなという「労働者」に育成していく「場」として、いわば、労働者予備軍として純粋培養する機能をもって子どもたちの生活を吸収するようになってしまったのである。
何かに興味をもったり、学んだりする行為は、本来「私的」なものである。
共同生活体の中では、これは、真似る、模倣するという形で一人一人の子どもたちに共有されていた。学ぶという行為は、真似るから始まっている。しかも、子ども自身が興味をもち、模倣したいと思って初めて、真成るという行為が起こるわけで、きわめて自然なこととして、学習は行なわれていたことになる。しかし、学校教育では、子どもたちは、初めから個的な存在、私的な存在であることを拒否され、しかも年齢別に分けられ、教育される存在としての側面からのみとらえられることになってしまう。
授業中は、オシャベリはしてはならず、列を乱したり、廊下を走ったり、裸足で外へ出たりすることも禁止される。私的な存在を奪われ、公的な存在として、学校の中にある秩序に子どもたちはひたすら従わされていくのである。
一般に、学校教育ではさまざまな教科を教えることが、もっとも重要なことだといわれている。子どもたちも、また親たちも、学校には教科の勉強に行くのだと考えている。しかも、勉強が好きでならないという子どもは少ない。むしろ、しかたなく強制されてやるという傾向が強い。
しかし、もう一方で、学校教育は、日々の学校教育全体を通して、子どもたちに文化の内面化を伝えていく役割をもっている。
文化とは、一つの生活様式であり、その内面化を学校教育は担っている。表面的にみえる教科学習の裏にある、この文化の伝達と、子どもたちへの内面化の作用が、ぼくには、学校のもう一つの役割のような気がしてならない。そしてそれは、民衆の生活や文化とは異なった学校文化を、子どもたちに伝え、内面化させてきたという思いとも重なってくるのである。//
p295
//この時〔東京大空襲〕、ぼくは3歳であったが、鮮明にこの日のことは覚えている。//
p296
//この戦争〔第二次世界大戦の敗戦と終了〕は、近代化をおし進めてきた日本政府の方針『富国強兵』政策の一つの帰結でもあったといえる。//
2026.5.9記す

