教育の本旨──1926年、新潟県木崎村(きさき村)

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野本三吉『近代日本児童生活史序説』(社会評論社1995年)

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//「教育は自分のもので人のものではありませんぞ。先生とともに進むのです。先生は神でも仏でもありません。みんなと同じ人間です。つまり人間が人間に教えるのです。この右の手が先生、この左手がみなさんです。この二つが打ち合ふと音が出ます。この音が教育なんですぞ。自由平等に愛をこめて両手を打てば良い音が出ますから頑張って勉強して下さい。」//
p216
//「皆さん、いよいよ今日から授業を始めます。座ってもよし、胡座(あぐら)でもよし、横になってもかきひませんよ。小便が出るなら断らなくとも行きなさい。その代り先生に注文があったら何でも遠慮なしにどしどし言ひなさい。……人間には上も下もありません。人間の権利は水のように平らかなのです。だから、地主、金持ちだからとて偉いと思ってはいけないし、貧乏人、小作人だからといって弱いと思ってはいけません。赤い太陽の光は誰にも平等に注がれていることを心に刻んで下さい。」
〔青木恵一郎『日本教育外史』同朋舎1977年より〕

 この名演説! 録音もせず、よく書き留めたものだ。教育の本旨を高らかに謳い上げている。1926年(大正15年)5月28日、新潟県北蒲原郡木崎村で開校となった「農民小学校」の開校式で川瀬新蔵が話した。
p216
//ミカン箱やソウメン箱を机がわりにして子どもたちを前にし、また野良着姿の親たちの見守る中で//という情景だ。

p217
//教師体験を、黒田松雄氏が『朝日新聞』に書いた手記を引用してみると次のようになる。//〔『東京朝日』大正15年8月18日付〕
//「女児の竹やぶの様な頭髪を見ると、始めは身震ひした。その中にはしらみの大軍が潜伏してゐる。……彼等は暇さえあればオハジキとしらみ狩に夢中になってゐる。」
 「私の分校約80名のうち満足に、読本の読める子供は10人とない、他の子供は全く問題にならない。……6年生でほとんど読めない子供が沢山をる。彼等の大部分は先生の口真似をしてゐるばかりだ。本の字を見ない。……算術でも同様だ。5年生に簡単な割算が出来る子供が3、4人しか居ない。」
 「私は当局の態度を奇怪に思ってゐる。当局はこの無産小学校を攻撃するが、私の経験は、小作人の児童を憐れな状態に放任してゐる今までの完備した小学教育よりも、設備不完全でも教へ方は下手でも、熱心によって少しづつでも憐れな児童を引きあげてゆく事の出来る無産小学校の教育が、遥に良いことを示して余りある。今までの教育のゆり方ならば、木崎村の小作人の子弟は永遠に浮かばれない。」
 「始めの間は、児童に本が読めない時、その傍にゆくと、頭を縮め又手を挙げて頭をかかへた。小学校では、児童が本を読み得ないと児童の頭をたたいたといふ。その時の癖が残ってゐて、私達が近づくと反射的に手を挙げて頭をかかへるのだ。子供達に聞くと、学校で子供をたたいたり、物を投げつけたりするのは、日常の事だといってゐる。彼等には教員は恐ろしい者と思はれてゐる。//

p218
//当時、小学校6年生で、農民小学校に通っていた市川正二君は、作文にこう書いている。
 「この争議がはじまるまで、お父とお母はけんかばかりしておりました。ぼくはいつも悲しい気持でふたりのあらそひをみておりました。二人がけんかをはじめると、外に出てひとりで遊んでいました。おもしろい日は一日もなかった。このたたかひがはじまると、お父もお母も、けんかをするかはりに、たたかひの話ばかりするようになりました。お父は字が読めません。字はお母のほうがよく読めたのだ、新聞を読んで地主や県の人たちのうごきをお父に話してやりました。
 ”おっかあ、おまえのおかげで、わしもいろんなことがわかるようになったじゃ。こりゃ、どんなことをしても負けてはおれん。きばって組合にめいわくをかけんようにせにゃならんな”とお父はよくいいます。
 いまでは家の中ではお父もお母もよく笑ひます。じいちゃんもばあちゃんも、お父やお母といっしょになってこの争議の話ばかりしております。
 ”正二、農民小学校でしっかり勉強せにゃ。
 字が読めんとな、政治のことも、争議のことも何もわからん。お父もお母から字をならって勉強するからな”とよくいひます。
 ぼくは家の中が明るくなったことがいちばんうれしい。そして、農民小学校に通ふのがたのしくてたのしくてたまりません。お父のいふやうに、勉強をいっしょうけんめいにすることをちかひます。」(作文集『創生時代』)
 こうした子どもたちの文章を読んでいると、教育というものは学校という場の中だけで行なわれるものではなく、むしろ子どもたちの生活の場、家庭や地域を通して行なわれていくのだということがよくわかる。
 木崎村という村全体が、そのままで生活の場であり、一つの大きな「学校」として成長してきているような気にもなってくる。親と子の生き方が同じ方向を見つめており、その限りでは、親も子も同じ仲間であり、鍛えあい励ましあっていく同志にもなっているように見える。//

p222
//農民小学校の生徒であった斎藤一郎氏は、当時を思い出しつつ、『新潟日報』のインタビューにこう応えている。
 「教科書は国定教科書でやりました。ただ同じ教材を使いながら教え方には天と地の違いがあった。歴史などその時代の偉い人の逸話ばかりで庶民が描かれていないし、そのカゲにはどれだけの百姓町民が犠牲になったかわからない。そのあたりをはっきりやりましたよ。……子供が大好きだった浅沼稲次郎さんのでっかい肩で肩車をしてもらい “うんと勉強しろよ” といわれたのをおぼえています。
 木崎争議は私の原点です。学問は机に向かって人のいうことをノートに書くだけでないことを私は学びました。今、土を忘れ、人間を忘れた教育がまかり通っていますね。なげかわしいですね。」(『新潟日報』1972年8月7日付)//

p222
//しかし、この試みは、1926年9月8日、新潟県知事と農民組合幹部との話し合いによって、消滅するのである。
 7月には、校舎の上棟式まで行なった木崎農民小学校は、その年の9月10日、閉校式を行なわねばならないという状況になってしまうのである。新潟県が小作争議に対して調定をすること、また高等農民学校を残すという条件にあったとはいえ、同盟休校解除宣言と、農民小学校の閉校式を同時に行なわれなければならなかった無念さは、この運動に関わったすべての人々、子どもたち、農民、教師たちの胸中にあったはずである。
 そして、農民の文化を創造し、農民の自立と解放を目指していた農民小学校の実践は、近代の日本子ども史にとって、けっして忘れることのできないこともまた、確かなことである。//

2026.5.14記す

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