小谷敏『無能と失敗の社会学』高文研 2024年
p14
//そのメカニズムを「訓練された無能力」ということばによって明らかにしたのがアメリカの文芸批評家ケネス・バークです。バークに影響を与えたソースタイン・ヴェブレンは、それとはやや異なる意味でこのことばを用いています。//
p25
//大衆化した大学生//
p25
//「終戦記念日」という呼称には、筆者には異論があります。//
p33
//社会学者たちは急速な近代化が社会にもたらすひずみを「圧縮的近代」の問題として論じています。//
p40
//音楽における休止符が象徴するように、文化的創造においてはむしろ無為は尊重されます。自分と向き合う時間なくして、文化的創造などありえないのですから、教養や文化的創造は、「すること」より「であること」と深く関わる領域なのです。//
p55
//第二次安倍政権を語る際にしばしば言及されたのが、ルネッサンス期のフランスの思想家、エティエンヌ・ド・ラ・ボエシの『自発的隷従』という書物でした。//
p56
//民主主義的なリーダーではなくとも、公私を厳しく分けるタイプの指導者も存在しうるからです。江戸期の「名君」と呼ばれる人たちがそうであったように。「クローニー・ポリティクス」〔お友だち政治〕がはびこった背景には、安倍の特異なパーソナリティが大きな要因をなしているのではないでしょうか。
安倍の特異なパーソナリティとは、その強い幼児性〔※1〕です。//
※1……//いたずらに好悪や快・不快の感情を露わにして//p56
p57
//「〔社会的地位の著しく高い〕上級国民」──法治から人治へ──//
p82
//「軸」の欠如という問題//
p87
//21世紀のいまも、儒教道徳が人々の政治意識を拘束しているなどということがありうるのかという疑問//
p87
//儒教道徳は体制の「公定イデオロギー」でした。
p88
//儒教道徳という政治意識の「古層」(丸山〔丸山眞男〕)が露呈してきたとはいえないでしょうか。//
p88
//先輩と後輩の別//……//「長幼の序」の観念//……//中高生「らしさ」//
p88
//権力者を奉祝することは許されるが、批判することは〔「政治的」として〕許されない//
p114
//神話とは国民というまとまりを作るための理念や概念と置き換えてよいかもしれません。//
p125
//岸田〔岸田秀〕は統合失調症といい、赤坂〔赤坂真理〕は解離と呼び、バーマン〔モリス・バーマン〕は神経症の診断名を与えています。表現は様々ですが、敗戦後の日本人の精神構造にはどこか病理的なところがあり、それがアメリカとの関係に由来しているという認識で共通しています。//
p126
//川端は三島の死に大きな衝撃を受けています。三島の死から約1年半後の1972年4月16日、自宅でガス管をくわえ、三島と同じように自ら命を絶っています。日本を代表する二人の文学者の自死は、「自分たちの文化をまるごと否定し、生活をダメにすることに同意した」敗戦後の日本への絶望が表明されています。//
p127
//「意識高い系」を冷笑する。現在の若者の原型〔「三無主義」、無気力・無関心・無感動〕がここにみられます。第3章で指摘した若者のシニシズム〔冷笑主義〕には、半世紀を超える歴史があるのです。//
p129
//敗戦後の日本の大人たちは、私生活を犠牲にしてひたすら働いてきました。そして子どもたちにも、ひたすら勉強をして、「よい学校」→「よい会社」というベルトコンベアに乗ることを強いていったのです。//
p142
//もちろん筆者には象徴天皇制を手放しで礼賛するつもりはありません。//
p151
//非合理の極みともいうべき「お役所仕事」が常態化しています。//……//合理性を極限まで追求した官僚制的な組織において、なぜ非合理かつ非効率的な「お役所仕事」が生じるのか。それがマートン〔ロバート・キング・マートン〕の提起した問いでした。//……//官僚制の病理を、マートンは「官僚制の逆機能」と呼んでいます。//
p164
//人間は過去の経験から多くのことを学び、それに応じて目的を達成するための手段を選択していきます。しかし、状況は常に変化しています。過去には合理的であった手段が、いまもそうであるという保障はどこにもありません。豊富な経験をもち、過去に華々しい成功を収めた個人や集団ほど、かつて有効だった手段に固執することによって、「訓練された無能力」の罠に陥る可能性が高いのです。このバーク〔ケネス・バーク〕の洞察は、日本の現状を考える上で、多くの示唆を与えてくれているようにみえます。//
※子どもも゜訓練された無能力」に填まるのか?
p165
//「階層社会学者」を名乗るローレンス・J・ピーターは、人々が努力をして有能さを発揮すると、社会の無能の総量が増大する、という逆説的な命題を提起しています。「ピーターの法則」と呼ばれるものです。このタイトルの本は、あるジャーナリストのピーターへの聞き書きによるもので、厳密な意味での学術的な著作であるとはいえません。しかし、訓練とそれがもたらす有能さが、社会の無能を増大させるという認識は、「訓練された無能力」と重なりあう部分が大きいでしょう。//
p165
//「名プレーヤー必ずしも名監督ならず」。優秀な教師が管理職としても有能だとは限りません。校長なり教頭なりが、有能な教師の到達した「無能レベル」なのです。同様なことは、目覚ましい業績をあげたセールスマンやエンジニアが、企業の管理職に出世した場合にも起こりえます。有能さを発揮して目覚ましい出世を遂げた人も、例外なく最後には無能レベルに到達し、社会に損害を与える存在に成り下がってしまう。そうした冷厳な事実を、ピーターらは軽妙に描き出しています。//
p168 ※//「訓練された無能力」の二つの形//
//世の中には、過去の成功の記憶にとらわれ、過去には有効であったが、いまではその有効性が失われた手段に固執して、失敗を繰り返す者がいる。他方では、自分の利益になることならば、社会の全体に与える損害を顧慮しない能力を訓練によって獲得した者たちがいる//
p199
//メリトクラシーとは、その人の生まれ(「であること」)ではなく、その人の達成したこと(「すること」)によって評価され、社会的な地位が決定される体制を意味しています。//
p202
//イギリス人は終生、心理学的な権力によって管理され、競争を強いられるようになりました。「英国の最大の長所である子供の管理体制とねアメリカの最大の長所である成人の管理体制とを兼ね備えるようにするために、競争を一生続けねばならなくなったのだった」。それこそ「ゆりかごから墓場まで」イギリス人は監視され、競争を強いられるようになったのです。//
p203
//メリトクラシーが支配する社会においては、かつてはもたれていた身体を使う仕事への敬愛は失われてしまいます。「労働」ということばは多くの人に屈辱感を与えるが故に禁句となりました。労働者は「技術者」と呼ばれるようになったのです。ヤングの作品世界の中で、教育の平等化の旗振り役を演じたのは労働党でしたが、その実現の結果、「労働」そのものが忌むべきものとなってしまったのです。
メリトクラシーの全面化によって、知能指数の高い男女同士の結婚が、奨励されるようになりました。ヤングの作品世界では、知能が血統と同じ役割を果たすようになっていったのです。知能検査は精度を増し、胎児の段階でその子の能力の判別が可能になってしまいました。ヤングのディストピアは、心理学のみならず優生思想のディストピアでもあるといえます。//
p209
//私は高学歴の大集団が、ある種の愚かさを生んでいると思うのです。〔歴史学者エマニュエル・トッドの弁〕//
p219
//トッドの苛烈なエリート批判を読んでいて脳裏に浮かんだのが、「勉強のできる愚か者が世界を滅ぼす」ということばです。勘違いをし、自惚れ切った無能者ほど始末の悪い者はありません。//
p239
//この国〔日本〕にはまだ、「労働による承認」が、すなわち額に汗して働く人たちには、その社会的地位の如何に関わらず敬意を払うという気風が残っています。これが日本と欧米との大きな違いです。//
p253
//他者への依存を望む気持ちは、日本人だけではなく、すべての人類の中にあるものです。しかし、個の自立を強調する文化の中で育った西欧人には、それを素直に認めることができません。人間は他者に依存する他ない存在であることが認識できていれば、困った時に他者に頼ることに屈辱感を抱いたりはしない。この点に土居〔『甘えの構造』の土居健郎〕は日本文化のメリットを認めています。
中根〔中根千枝〕と土居に共通するものは、「タテ社会」と「甘え」という西欧にはない、日本社会(もしくは文化)の特質を指摘しながらも、その特質が、マイナスばかりではなく、プラスの側面をも含んでいることを主張した点です。//
p260
//20世紀初頭のアメリカの社会学者、チャールズ・ホートン・クーリーは、フェイス・トゥ・フェイスの人間関係を特徴とする小集団(「第一次集団」)の中で、子どもたちの人格は形成され、それはすべての社会の基底をなすものだと述べています。//
p275
//言語化の努力を怠っている//
p281
//自己否定的学習を著者たちは、「学習棄却」とも呼んでいます。//
p285
//現在の日本的組織は、「学習棄却」がまったく機能せず、工業化の時代、すなわち高度経済成長期に過適応してしまったようにみえます。
前例を踏まえて与えられた問題に正しく解答することが評価される記憶力重視の教育という軍の学校の伝統は、そのまま敗戦後の学校教育にも受け継がれていきました。//
p292 坂野潤治の時代区分
①革命・改革の時代……幕末維新
②建設の時代……西南戦争まで
③運用の時代……日清戦争まで
④再編の時代……普通選挙法成立まで
⑤危機の時代……日中全面戦争まで
〔番外〕崩壊の時代……日中全面戦争勃発1937年~1945年8月敗北まで
//「これ以後の8年間は、異議申立てをする政党、官僚、財界、労働界、言論界、学界がどこにも存在しない(中略)異議を唱える者が絶え果てた『崩壊の時代』を描く能力は、筆者〔坂野潤治〕にはない」。//
p295
//坂野の時代区分を、第二次世界大戦敗戦後の日本に当てはめてみたい//
①革命・改革の時代……1945-49
②建設の時代……1950-55
③運用の時代……1956-73
④再編の時代……1974-89
⑤危機の時代……1990-2012
⑥崩壊の時代……2013- //「崩壊の時代」をもたらしたものの正体をみた思いがする//p337
※「崩壊の時代」の次に来るものは? また、「革命・改革」になるのか?
p307
//その一方IOCのバッハ会長は、一泊250万円とも300万円ともいわれる超一流ホテルのスウィートルームに長期間滞在していたのです。アメリカの高級紙は、「開催都市をしゃべりつくす」バッハ会長を、「ぼったくり男爵」と揶揄しています。オリンピックを善きものと信じ、自ら進んでボランティアを買って出た人々は、パブロフの鶏よろしく、「ぼったくり男爵」たちの好餌となったのです。
ボイコフが言うように、オリンピックはいまや、開催地の人々の犠牲の上に、特権層がうまい汁を吸うイベントへと変質してしまいました。そんな中で、オリンピックはいまだに、世界の若者たちの友好の祭典であると信じ、ボランティアに赴いた善意の人たちの無償労働によって浮かせた経費は、「ぼったくり男爵」たちによって蕩尽されてしまったのです。「開催国をしゃぶり尽くす」IOCや国際競技連盟のトップの人たちは、他人の不幸の上に自らの幸福を築くことに良心の呵責を感じない、ヴェブレン的な意味での「訓練された無能力」を獲得した人たちにみえます。//
p319
//政治学者の竹中治堅は、90年代以降の行政改革の中には、首相への権限集中だけではなく、分権化の要素も含まれていたことを指摘しています。2000年に地方分権一括法が施行され、機関委任事務の制度が廃止されました。//
p331
//参考になるのが、アメリカの社会心理学者レオン・フェスティンガーが提唱した、「認知的不協和」の理論です。自分のこれまでの信念や行動に反する認知を抱え込むことは、その人にとっては不快なことです。その不快感を解消するために、人は認知を整合させる方向に動くとフェスティンガーは言います。//
2026.5.16記す
