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上笙一郎(かみ・しょういちろう)『日本子育て物語』
+ 副題:育児の社会史
+ 1991年
+ 筑摩書房

 日本の歴史における「時代区分」について、この本で著されている区分は、親からみれば「子育て」、子どもからみれば「育ち」について、それらを考えるに適切と思われる。

Ⅰ 原始時代
Ⅱ 古代
Ⅲ 封建時代・前期
Ⅳ 封建時代・後期
Ⅴ 近代
Ⅵ 現代

p2
//聞くところによれば、いま幼稚園では、衣服の着脱や排泄の始末のできない子どもがふえている一方、親たちから幼稚園への要求として出されるものはというと、文字や計算の教授であるといいます。その幼稚園を終えて小学校へ進むと学歴獲得競争はいよいよ本格化し、下校ののち数種の学習塾へかよう子どもが一般的となり、したがって余暇時間は極度に乏しく、加えて都市化の進行にともなう自由空間の消滅や子ども集団の瓦解などもあって、子どもたちは〈遊び〉とほとんど無縁です。//

p2
//わたしたちおとなは、しばしば、今の子どもたちが金銭感覚にのみ鋭敏で他者への思いやりの感情に欠け、若者たちは二十歳をはるかに過ぎても精神的な自立に至らない──と、嘆きつつ批判しています。けれども、この何とも嘆かわしい現状こそが、ほかでもない、二十世紀末の日本社会における子育てと教育の結果なのです。//

p7
//いま、世界的な規模で〈子どもの生長〉と〈子育て〉が困難となってきている状況において、どのような道を歩んだらよいのでしょうか。//

Ⅰ 原始時代

p32
//以上に述べた食料採集の技術、もう少年になりかけていたわたしを含めた村の子どもたち、親たち・おとなたちから特に教えられたということはなかったような気がします。わたしたち村の子どもは、4、5歳になると、春、草の伸びる頃、母親が摘草に出るとき一緒に連れてゆかれました。そして、母親の摘んでいる草や木の芽をかたわらで眺めながら、その葉の色やかたちや匂いなどを何時(いつ)とはなしにおぼえてしまい、少しずつ、少しずつ、有能な摘み手となっていったのだ──と言ったらよいのかもしれません。
 こうしてわたしの体験を狩猟採集経済の時代──すなわち原始社会にスライドさせて結論すれば、原始社会においては、その生産生活の〈採集〉的な側面に関するかぎり、おとなは、子どもたちにたいして、殊更に〈教える〉必要はなく、在りのままの日常生活がそのまま子育てであり教育であったということになります。この子育てないし教育は、おそらく、〈無作為の教育〉であり、また〈ゆるやかな学習〉とも言ってさしつかえないでしょう。そしてこの〈教育ならざる教育〉法は、先にも示唆したとおり、おそらくは年齢の低い子どもたち──幼児・児童期の子どもたちにこそふさわしい手だてであり、事実としても幼児・児童にかぎってほどこされていたにちがいないとわたしなどは考えるのですけれども。//

p39
//大学を卒業すると22,3歳、それからようやく社会人になるという現代とちがい、平均寿命が30歳くらいだったと思われる原始社会なので、青少年期も今日のそれより幾分か繰り下げて考えなくてはならず、まあ、10歳くらいからと見ておきましょうか。//

p40
//〔原始社会のイニシエーションについて〕その概略、教育学者=梅根悟の名著といわれる『世界教育史』(昭和30=1955年・光文社)がたいそううまくまとめているので、それを引くなら──
 自然諸民族の教育習俗として広く知られているのは入社式(イニシエーション)で……思春期に達した青年たちが集められて、断食をさせられたり、生き埋めの行事をやられたり、歯をぬかれたり、体にむごたらしい傷をつけられたり、背中を切りさかれたり、体の一部に釘をうちこまれ、その釘に綱をつけて、重い丸太をそれにくくりつけて長い坂道を歩かせられたり、ありとあらゆるむごたらしい苦行を命ぜられ、あげくのはてに失神状態におちいり、そしてそれから醒めたとき、彼は別人のように生まれかわり、そのときから新しい名前をあたえられ、これまでの生活を忘れることを要求され、母親のもとに帰って寝ることを禁じられ、青年集団の一員に編入されるというような形のものである。
 そして多くの民族では、この苦行のあとで集団の指導者から、その集団の神話を教えられ、掟を教えられ、それを破ったものがどのように恐ろしいむくいを受けなければならなかったかを物語る故事を聞かされ、さらに、それにつづいて戦闘や、さまざまの業務のための技能の訓練を長期にわたって受ける。こうして少年たちは、たくましい一人前の男、その集団の危機にぶつかったときには、どんな苦痛やはげしい戦闘にもたえることのできる人間になることが期待されるのである……〔ここまでが引用部分〕//
p41
//原始社会における子育ての終着点としてのイニシエーション、まことにきびしい儀式であったわけで、読者のなかには、ああ、原始時代に生まれていなくてよかったなあ──と思う方があるかもしれません。けれど、わたしなどは、20世紀末の現代の子どもたちより、原始時代の子どもの方がずっと楽だったんじゃないだろうかと考える折もあるのです。//

p50
//原始時代の遺跡に見出される〈女性〉の岩偶や土偶は、原始時代の人びとの〈後継生命の保存〉願望がモメントとなって作られたもの。したがって、顔はほとんど無きがごとくなのに女性と母性の特徴だけはグロテスクなまでに誇張・強調された石製・土製の女性像は、原始時代の人びとの〈子育て〉想念の具象化であり、その意味で原始社会の〈子育て思想〉のモニュメントにほかならぬと言わなくてはならないのです。//

p53
//わたしのような考古学の素養の乏しい者の眼から見ても、これら4つの見解、いずれも当っているとは思えません。//

p62
//卑弥呼という名称、固有名詞であるよりも〈女性の天皇〉を意味する〈姫命(ひめみこと)〉である蓋然性の方が強いものですから。//

p66
//原始人にとってはこの世界のあらゆる事物が神であり精霊だったわけですが、それには善と悪のふたつの種類があり、善き神は畏敬するだけで足りましたが、悪しき神や精霊は畏敬に加えて恐怖しなくてはならぬものでした。そういう悪しき神や精霊が人間の名を知りその名に悪意の働きかけをしたら、その名前の持ち主は、どのような不幸な目に逢うかわかりません。そこで原始時代より古代にかけての人びとは、善悪の種別を問わず神や精霊の嫌う物──すなわち尿(くそ)や尿(いばり)や目脂(めやに)などを、人間の名前のうちに取りこんだのです。見るのも嫌な排泄物なら、どんな悪神や悪霊だって逃げていってしまい、呪いをかけられたりなんかしないでしょうから。
 ところで、人間の名前というもの、生まれたばかりの赤ん坊が自分で附けることは不可能という事情もあり、両親または両親からの委任を受けたおとなの附けるのが普通のようです。原始時代にあっても、状況は似たようなものだったでしょう。してみれば、普通の感情を持った人間だったら眼をそむけたくなる排泄物の名を子どもの名前とした習俗の根底には、これまた、最愛のわが子を悪しき神・悪しき精霊・悪しき人から守りたいと願う親ごころがあったのだ──というふうに言わざるを得ません。
 〈トヨ〉に代表されるわが子豊かなれという名前も、〈クソ〉に代表される今日の感情からは汚らしい名前も、共に、日本の原始時代から古代にかけて生きた人びとの〈親ごころ〉のあらわれであったのです!//
※名前の例……//屎売(くそめ)・小屎麻呂(おぐそまろ)・由波利売(ゆばりめ)・全屎(またくそ)・今屎(いまくそ)・玉門売(くぼめ)・米比留売(めひるめ)・麻里売(まりめ)//p65

p70
//〈抱っこ〉と〈負んぶ〉は、人類全体の生活史的・保育史的な必然であり、その意味で世界共通の現象であったのではないか──と思うのです。//

p76
//〔ベビー=カーは〕〈地獄の乗り物〉と言ってもあながち過言でないと思うんですね。//

Ⅱ 古代

p80
//すなわち、中大兄皇子や中臣鎌足の生きた時代より以後は、前代の〈無意図的・生活的な子育て〉に代わって、〈意図的・学校的な子育て〉が登場してきたのだと要約しましょうか。あるいはまた、〈子ども〉の立場に立って、親たちが日常にやっていること為していることを〈見習って〉いたのでは足りず、〈文書による抽象的な学習〉を必要とする段階に立ち至ったのだと規定したらよいでしょうか。//

p80
//そうなると、頭脳的にもすぐれた腕力も強い者が、他人の余剰生産物を奪い取るようになりました。余剰生産物を奪われる側はもちろん抵抗したはずですが、奪い取る側は、ほかならぬ奪い取った余剰生産物を武力に転化させてさらに強大となり、ついには、その〈支配的暴力〉を〈合法化〉するために〈国家〉というものを作るに至ります。こうして生まれたものが古代国家で、他人の余剰生産物を奪った者が権力を握って〈貴族階級〉となり、余剰生産物を奪われた者は、支配される階級としての〈農民階級〉となったのでした。//

p84
//ここで、何としても書き落せないのは、こうした国立中央学校・国立地方学校および私立学校へ入学して学んだのが、〈貴族〉の子弟にかぎられていたという一事です。いずれの学校の場合も、貴族のすぐ下に位置する階層──たとえば国司・郡司といった役職にある者の子弟には門を少し開いていたようですが、農民の子弟なんかはどんなに頭が優秀だって受け入れませんでした。//

p86
//原始社会から古代社会に進むと、民衆一般ではなくて貴族階級だけのことではありますけれど、学校教育が始められるようになった──と前章に書きました。けれどその学校教育、国家の中央に大学がつくられ地方には国学が置かれたわけですが、いずれも官吏養成のための高等教育施設だったと言わなくてはなりません。
 今日でも、大学に入るためには、高等学校という中等教育学校を卒業していなくてはなりませんが、古代社会としての奈良・平安時代においても同じでした。しかし、当時は国家の施設としての中等教育学校はなく、その代わりにたくさんの私塾があって、ずいぶんと栄えていたのです。//

p86
//こうして中等教育にも学校に準ずべきものがあったわけですが、では、初等教育の学校はどうであったかと探してみるに、どこをどう訊ねても見当たらないんですね。学校はなくても、中等教育の私塾へ入れるからには初等教育は不可欠ですから、子どもたちはどこかでそれをほどこされていたのであり、その場所はどうやらおのおのの家庭であったらしいのです。//

p87
//家庭においてなされる初等教育の教師の役は、母親ないし乳母が担当していました。当時の結婚=家庭生活は、夫婦と子どもの同居が普通の今日とはちがって、妻の家に夫が通って来る〈通い婚〉であり、したがって、母と子は同じ家にいても父と子は別の暮らしだったので、父が教師となることはできなかったのです。//

p87
//この頃の初等教育は、男の子と女の子で大きく異なっていたようです。男の子は、やがて私塾へ行きさらに大学または国学を経て官吏となるのを目標に、七歳くらいで〈学問始(はじめ)〉の儀式をおこない、『千字文(せんじもん)』『孝経』『蒙求(もうぎゅう)』など中国渡りの書物を習いました。が、女の子の方は漢字の書物は与えられず、歌を詠み琴を弾くことをもっぱら教えられたのです。経済的に自立して生きることなど思いもよらなかった時代であり、貴族階級の女性は同じ階級の男性の妻となるほかに道はなく、そしてそういう男性の妻となるには、歌の遣り取りという恋愛儀式が必要不可欠であった故に。//

p95
//当時20代の後半に足を踏み入れたばかりだったわたしは、自然科学と社会科学とをとおしての合理主義者で、理に合わぬものは一切受け付けませんでした。//

p111
//〈生活上の必要〉なしには何ひとつ現前しない──というのも人間世界の事実なんですね。たとえば、おとなの唄である民謡は労働とそれにかかわる祭事の必要から生まれたものですし、次章に述べたいと思うわらべ唄は、子どもの遊びの必要から作り出されたものです。とすれば、子守唄もまた、〈子を守(も)る必要〉から編み出された唄と考えた方がよいのではありますまいか。//

p120
//〈わらべ唄〉と〈遊び〉を別物と信じている人もあるようですが、わたしは、〈わらべ唄〉とは、〈遊びに附随した唄〉ないし〈遊びの必要から生み出された唄〉と考えていますので、〈わらべ唄=すなわち遊び〉と言い切ってしまってもよいと思っています。//

p121
//当時の歴史書や文学作品を覗いてみると、おとなの遊びに関しては、琴や笛から歌合せ・香合せは言うまでもなく賭けごとの要素の強い盤双六(ばんすごろく)に至るまで、枚挙にいとまないほどたくさんのものが見受けられます。なのに、子どもの遊びとなりますと、『源氏物語』のなかでまだ幼い紫上(むらさきのうえ)が雛遊びをしたり雀の子を籠に伏せたりしているのと、『堤中納言物語』のなかの「虫愛(むしめ)づる姫君」が、今日の子どもの夏休みの姿をさながら、「螻蛄(けら)、蟇(ひき)、いなかたち(蜻蛉(とんぼ))、いなごまろ(精霊(しょうりょう)ばった)、あまひこ(やすで)」などを飼っているのとが思い当るくらいなのです。//

p126
//一言にして言ってしまえば、こういう答えになるでしょう。──原始社会より一段しか進んでいない古代にあっては、まだ社会が、複雑な遊びを子どもに許すまでに至っていないからである、と。
 スイスの児童心理学者ジャン=ピアジェは、子どもの遊びを、子どもの心身の発達段階に照応させて三段階に分けました。第一段階は「機能的ないしは実践的な遊び」で、動く物を追いかけたり小溝(こみぞ)を跳び越えたりという無目的的なもの、零歳より二歳くらいまでの乳幼児に固有な遊びです。これに次ぐ第二段階は「象徴的遊び」であり、言葉や想像によって、眼前にない事物を材料にして遊んだり心理的な願望や補償を充足したりするというもの、二歳より七歳くらいまでの幼児に可能な遊びです。そして最後の段階は「ルールのある遊び」であって、鬼ごっこ・石けり・花いちもんめなど相手との社会的な約束を基軸として複雑に運行させて行くもの、七、八歳より十一、二歳までの児童期に出現する遊び。
 生命・生物科学の世界には、「個体発達は系統発達を繰返す」というテーゼがありますけれど、それが正しいなら、逆に辿って、個体発達のうちに系統発達を見てもよいはず。すなわち、子どもの遊びの発達の三段階は、取りもなおさず人類史における遊びの発達そのものだと言うことができるのではないかと思うのです。//
※残念ながら、ピアジェの発達段階説には疑問が呈せられているし、「個体発達は系統発達を繰返す」もは今日否定されている。したがって、これらを前提にすると論理が怪しくなるが、言わんとすることを読み取りたいので、引き続き引用しておく。

p126
//その際、子どもの遊びの発達の段階を人類発達史にどう照応させたら適当なのかと迷いますが、幼稚な遊びの段階が人類史の未発達時代にコレスポンドすること当然です。したがって、ピアジェの言う第一段階の「機能的ないしは実践的な遊び」は人類史の原始社会のそれに相当し、第二段階の「象徴的遊び」は古代社会に相当し、第三段階の「ルールのある遊び」は封建社会に対応する──と見ることが可能なのではありますまいか。
 この仮説に立って日本の歴史・文学資料を眺めるに、原始時代にあったはずの「機能的・実践的な遊び」については、その遊びが動物の無意味行動とも通うようなささやかなものであったためと無文字時代だったことのため、今日に何ひとつ痕跡を残していないと言わなくてはなりません。原始時代に継起した古代に関しては、「象徴的遊び」の一種と見てさしつかえない。〈自然物に呼びかける〉わらべ唄=遊びが多々あったこと、すでに記したとおりです。そして、社会が一段と進展し人間の知能もずんと進んだ封建時代をむかえると、「ルールのある遊び」の花々が一斉にひらいて、その遊びは、かくれんぼ・鬼ごっこ・毬つき・じゃんけん鬼などといったふうに近代にまで連続することとなるのです。
 以上のように観てきますと、古代社会は、動物とも通底していた子どもの遊びが一段大きく進化した時代、わらべ唄に即して言えば、その誕生の季節であるということになります。しかし、わらべ唄=子どもの遊びの全盛期は古代のつぎに到来する封建時代なので、その時期のことは、後章にゆずらざるを得ないのですが……。//

p128
//わたし自身の体験をかえりみるに、「ほうたる来い」とうたいつつ源氏蛍(げんじぼたる)や糠蛍(ぬかほたる)〔蛍の幼虫〕を取ったことで、蛍の光の美しさに心を吸われるとともに、光るところは蛍に似ながらその姿〔幼虫〕のおぞましい馬隆(やすで)という虫のいることも知ったのでした。//

p128
//わらべ唄は、最初の発想は幼児によってなされつつもその形成には父母・祖父母というプリズムが加わっており、そのプリズムが民族共同体の基礎的な思想や感情として作用していたかぎりにおいて、幼な子(おさなご)たちに共同体的・民族的な感性を養うものであったとしなくてはならないのです。//

Ⅲ 封建時代・前期

p130
//〈学校ずくめ〉が普通の状態となってしまっている現在のわたしたちに、学校というものが日本じゅうにひとつもなかった時代があった──と言って、本当にしてもらえるでしょうか。しかし、わたしたちの国日本の歴史には、そういう時代がたしかに存在したのです。
 それは、古代社会の次に来た前期封建社会、いわゆる鎌倉時代から戦国時代に至る四百年間です。そして、では、どうしてこの時代に〈学校〉という教育施設が皆無だったのかと言えば、それは、この時代が戦乱に明け戦乱に暮れる歳月の連続であったからにほかなりません。//

p131
//しかしながら、右のように言いますと、教育史学者のなかから苦情が出るかも知れません。──前期封建時代にだって、京都になかっただけであって、政治の中心地であった関東地方には、金沢(かねさわ)文庫と足利学校というふたつの学校が厳として存在していたではないか、と。//

p132
//金沢文庫、今は多くの人が〈かなざわ文庫〉と読んであやしみませんが、幾百年来〈かねさわ文庫〉と読まれてきました。//
p132
//つまり金沢文庫は、〈文庫(ふみくら)〉の名のとおり正しく〈書物を収めた庫〉であり、今日の言葉で言えば〈図書館〉であって、決して学校ではなかったのです──//

p133
//そうだとすれば、仮りに足利学校が〈学校〉であったとしたところで、日本国六十余州の子どもたちにとって何の意味があったでしょうか。すなわち日本の前期封建社会は、やはり、学校のひとつもなかった時代である──と言わざるを得ないのです。//

p134
//武士階級の親たちがわが子の識字教育のために執った手だてはといいますと、諸方に散在した仏教寺院へ子どもを預けることだったのです。//
p134
//仏教は空前の盛況。京都や鎌倉の五山をはじめ全国いたるところにさまざまな宗派の寺が建てられ、寺のことですから僧たちは経文を読み、経文を読むには小僧時代から文字を学ばなくてはならず、いきおい寺院には〈識字教育〉が存在しました。//

p138
//前期封建社会には文字を読み書きできない武士や武将がおおぜいいました。//

p139
//古代社会において学校教育が栄えていたのは、貴族が官僚であり、しかも文官であったからだとしなくてはなれません。//

p140
//当時の武士階級の教育の本命だった〈武術〉は、一体どこで、誰により、どのように子どもたちに教授されていたのでしょうか。//

p142
//武士として生きる上でもっとも重要な技術ため武術を、父みずからわが子に教える──これが規範型であり、傅役に託すのはヴァリアント(変型)であったと言わなくてはならないのです。//

Ⅳ 封建時代・後期

p148
//17世紀の初め、徳川家康が政治的・経済的・軍事的に全国を統一して江戸に幕府政権を樹立すると、それより18世紀〔※19世紀の間違い〕半ばのいわゆる明治維新革命まで、およそ250年の平和な歳月が続きます。そして、そうなると、武士階級の子育てと教育法は変わらざるを得ず、事実上大きく変化したのです。//
p148
//それではどんなふうに変わったのかといいますと、平安時代さながら、ふたたび学校がたくさん造られるようになったと言いましょうか。それとも、武術よりも文章の読み・書きの方が喜ばれ、その能力を身に着けることが親たちの望むところとなった──と申しましょうか。//

p148
//徳川時代250年のあいだに軍隊の動いたのは、三代将軍=家光の治世に起こった島原の乱のときだけです。後はずっと平和そのものだったので、刀槍や弓矢の術は、武士階級の思想的・職業的な〈建前〉として尊重されていたものの、実際にはほとんど必要でありませんでした。実際に必要だったのは、高度に発達し安定した封建社会における支配階級の一員としての政治・経済的な事務処理の能力、具体的に言えば農民たちから取り立てる年貢の事務さばきであって、それには何としても読み・書き・計算の力が入用です。そこで、武士として出世するには武術よりも知的・文化的能力を身に着けるのが早道ということになり、わが子を愛する親であればあるほど、愛し子に読み・書きの教育をほどこすようになったのです。//

p150
//いま、わたしたちの話に必要なのは高等教育ではなく初等・中等教育の方なので、私塾は措(お)いて家塾と藩校に眼を向けたいと思いますが、その設立は、江戸時代初期にあってはわずかでした。ところが、中期になると急激に増え、幕末には、高田藩や岡崎藩などの少数が家塾に固執して藩校を作らなかったのを例外として、日本中のほぼすべての藩が藩校を持つに至っているのです。
 藩校の置かれた場所は、その藩の政庁たる城の内側のこともありまた城から離れていることもありましたが、相応の建物が構えられ、その校名には、学習堂・自習館・明倫堂・弘道館・致道館・時習館・日新館など倫理的かつ好学的な文字の選ばれるのが常でした。近代の義務教育制小学校では入学年齢は満六歳と決まっていますが、藩校ではさまざまで、満五歳で入校させる藩があるかと思えば満十歳で入校という藩もありました。そして登校・授業の時間も、始業時間を決めていっせいに登校させているところと、定めの時間内なら都合にまかせて登校してよいというところとあったのです。//

p153
//後期封建社会としての江戸時代も中期に至ると、そのような教授法にたいする反省が表面化してきます。そして、素読法を克服することはできませんでしたけれど、それを、子どもの心身的発達段階の適当なところへ位置づけようとする教育学が樹立されるに至るのです。//
p153
//その典型的な例が貝原益軒の教育学で、81歳のとき書いた『和俗童子訓』〔※〕(宝永7-1710年)という書物のなかに展開されています。この本は日本における最初のまとまった教育論書であるといわれ//……(※構成5点を紹介し)//そのうちの「随年教法」が、子どもの心身の発達段階を考慮しての教授法の提唱なのです。//
p154
//「随年教法」、益軒自身が返り点を打って「年ニ随(シタガ)フテ教フルノ法」と訓(よ)ませているこの教授法は、数え年の6歳をもって文字的教育の開始期とします。//
p155
//「随年教法」が、ヨーロッパ教育史におけるペスタロッチの同種の考えより70年も早いのは、おどろくべきことだと言わなくてはなりません。学者によっては、ここに近代教育学のめばえを見ようとしているくらいです。//

p157
//町人階層がどのように子育てをしていたかといいますと、//……//もう少し精確に記すなら、〈手習い〉を基礎的教育として、その上に、職業的専門教育としての〈見習い〉教育をほどこしたもの──ということになるでしょうか。//

p157
//それがすなわち寺子屋で、〈寺小屋〉と書いた例もありますが、元来が〈寺へ通っていた子ども〉を引き受けることを〈商売〉にしたという意味なので、〈寺子屋〉と記す方が妥当でしょう。そして〈寺子屋〉の名は、元禄8=1695年に笹山梅庵の著した『寺子制誨之式目(せいかいのしきもく)』のなかに見られるのが最初であり、そこに通う町人の子どもたちは、〈寺子〉のほか〈手習い子〉〈筆子(ふでこ)〉などとも呼ばれたのです。//

p158
//寺子屋へ入るのは今の就学年齢と同じく6,7歳で、入学試験などというものはもちろんなく、親が子どもを連れ、わずかな物品を束脩(そくしゅう)として持って挨拶に行けば、それでもう立派に寺子として認められました。毎月の月謝はお金でも品物でもよく、今日の学校の授業料のように一定ではありませんで、家の経済状態によって多額でも少額でもさしつかえないとされており、ある意味でたいそう合理的だったということができます。//

p181
//農業技術の低かった前期封建社会までは、人びとは、農業技術の低かったまさにその分だけ心理的に〈神〉に縋(すが)らざるを得ず、したがって、生産にかかわる祭祀は〈おとな〉たちが真剣に執りおこなっていました。しかし、江戸時代は、相対的ではあるにせよ農業生産技術の大幅に進んだ時代であり、人びとの〈神〉への心理的依存は、前代よりも淡くなったのですね。//……//そこで江戸時代に、共同体祭祀のあるもの・ある部分を〈遊び〉の裡〔うち〕におこなうための子どもの組織としての〈子ども組〉が、にわかに顕在化することとなったのです。//
※「子どもの発見」と言ってよいかもしれない。

 後期封建社会において、「〈遊び〉の本格的な成立」(p183)根拠を、ピアジェの発達段階説や系統発達理論(p126)に求めている。原始社会や古代にその発達段階が認められるとしているが、社会学的にはそうであるかもしれないが、「心理学的な発達」という観点や進化論的には、現象面だけで比較検証するのは表面的な感じがする。

p202
//『女大学』、「大学」という文字の付いているところからすると高等教育に関係があるように印象されますが、そうではありません。中国では長く初級教育の教科書として『論語』などとともに『小学』や『大学』が用いられており、中国に学んだ日本の教育にあっても、『論語』『小学』『大学』はずっと初級教育のテキストでした。そして、古代から前期封建社会までは教育は〈男子〉に限ってほどこされ、〈女子〉はその対象でなかったのですが、後期封建社会としての江戸時代になると女子にも初等教育が普遍化し、その際、男性用の『大学』に限って『女大学』という〈女子専用〉の教科書が編まれたのです。//

p209
//これら『女大学』を越えようとした書物、残念ながら少数派にとどまり、大きな力は持てませんでした。圧倒的にたくさん読まれたのは、下田歌子や棚橋絢子など保守思想に拠る〈明治版『女大学』〉であったのです。
 このことは、一体何を意味しているのでしょうか。それは、近代といわれる明治期に入っても、日本の女性の生活現実は江戸時代と大して変わっておらず、建前は別として本音においては〈七去〉も〈三従〉も命脈を保っており、それ故に、江戸時代と同じプラグマティズム教育がまだまだ必要だったということなのかも知れません──//

p210
//〈胎教〉とは、いったいどのような育児観であり教育観であったのでしょうか。//

Ⅴ 近代

 この章を記録するに //痛恨の思い//(p302)にいたたまれなくなる。

p302
//これまで記してきたことであきらかなとおり、日本の子どもたちの育ってきた道程には、過酷な風の吹き荒れた季節がしばしばありました。たとえば、〔①〕原始時代から古代にかけては社会全体が良くなかったため乳幼児死亡率がきわめて高く、〔②〕数百年つづいた封建時代の農民の子は「一姫・二太郎」の余は間引かれてしまい、〔③〕そして近代の初期にあっては、多くの子どもが資本主義確立のための〈労働力〉として使い捨てられています。しかし、〔④〕昭和10年代という時期には、子どもが、〈労働力〉として使われるという域を越えて、外国との戦争における〈戦力〉として用いられたのです。//

p235
//明治20年代までは、義務教育であっても教科書は検定制であり、教師は自身の宜(よ)しと思う教科書で子どもたちを教えていたのですが、明治35=1902年に教科書出版社と検定委員のあいだに贈収賄事件が起こったのを直接のきっかけに、政府は国定教科書制度への転換を断行。それによって、日本じゅうのすべての小学校が文部省のつくった唯一無二の教科書を使うこととなり、国家としては、その教育思想を教材り上に百パーセント反映させることが可能となったわけです。以後、国語・修身・歴史などの国定教科書に、天皇家の先祖とされた神々の物語や日清・日露戦争をたたかった将軍や兵士たちの勇ましい話が多くなり、子どもたちは、それらの話に強く感情移入しながら学習することとなったのでした。
 すなわち、「教育勅語」の渙発〔かんぱつ〕とその政策的な具体化としての国定教科書の制定によって、近代日本の子どもたちは、温良な労働者と勇敢な兵士──どんな過酷な条件にも耐えて低賃金でよくはたらく工場労働者と、異国の民衆を殺し自分もまた平気で死ぬ兵士に育っていったわけです。近代日本の国民皆学制度、世界一と言っても過言でない就学率〔明治末には98.2パーセント p231〕で且つ学力も高度だと、喜んでばかりはいられないのです──//

p233
//筋力は機械が代行するようになった近代的工場生産における労働は、一定水準の読み・書き・計算能力を持った人でなくては為果(しはた)すことができません。//
※さて、今日においては、読み・書き・計算能力だけでなく高度な判断あるいは論理的能力をAIが実用的段階に達している。人間(子ども)の能力は、どこに求められるのだろうか?

p237
//近代資本主義は、人びとの〈生活上の必要〉のためではなく、〈利潤の追求〉のために物質=商品を生産し販売する社会的な機構です。目的が〈利潤の追求〉にあるのですから、資本の持主としては、もっとも安価に工場を設備し、もっとも安価な原料を仕入れ、もっとも安価な労働力を使用するのが合理的だ──ということになります。いま、工場設備と原料に関しては措(お)いて労働力についてのみ見ますけれども、一体どのような労働力を使うのが合理的であり目的の達成に一等よく叶うでしょうか。
 その問いにたいする答えは、ただ一言にして事足ります。それは、若年労働力を使うこと──すなわち〈おとな〉ではなく〈子ども〉を労働力として雇うことである、と。//

p248
//そして彼〔イギリスの軍人ベーデン=パウエル p248〕は、この経験によって、少年を組織的に教練すれば心身共に逞しくなり、良識を誇るとともに一旦事あるときには身をもって国家や社会を護るジェントルマンを生み出すことになる──と確信し、ボーイ=スカウト運動を興したのでした。//
p248
//ボーイ=スカウトの〈スカウト〉の元来の意味は〈斥候〉ですが、斥候とは軍隊用語であり、また戦争の際の重要な任務の名でもあることをあらためて強調するにおよばないでしょう。そういう〈スカウト〉を団体の名前に選ぶからには、ボーイ=スカウト運動の背後に〈軍隊=戦争〉が揺曳(ようえい)していると見られても仕方なく、また、ボーイ=スカウト運動の思想的根柢には〈軍隊=戦争〉への郷愁があり、それが、二次大戦中のドイツの少年団ヒットラー=ユーゲンやわたしたちの国の大日本青少年団など、侵略戦争協力に絶大的な青少年組織を生み出してしまうことにもなったような気がするのですが──//

p300
//大正期が過ぎて昭和前期に入りますと、産児調節運動にたいする国家の干渉=弾圧はいよいよ苛烈になったとしなくてはなりません。周知のごとく日本は、一次大戦の戦後恐慌の解決策として日中戦争から太平洋戦争へと戦火を拡大していったわけですが、それにともなってますますの多数の〈強兵〉が必要となり、〈少産=良育〉の思想と運動は国家利益に違(たが)うものとなったからです。
 昭和6=1931年のいわゆる満州事変以後、産児調節にかかわる書物や雑誌は全面的に禁止されました。次いで昭和12=1937年には、〈日本のサンガー夫人〉と呼ばれていた加藤シヅエは逮捕、彼女を中心とした日本産児調節相談所の記録カードは警察に没収され、相談所は結果的に閉鎖を余儀なくされるに至ります。そして、このような弾圧に加えて日本国家のやりはじめたことはというと、当時のポスターのキャッチフレーズが端的に示しているとおり、「産めよ殖やせよ」の政策であったのでした。//

p305
//その詳細は妻=山崎朋子の著書『鳴潮のかなたに』(昭和58=1983年・文藝春秋)を見ていただくしかありません──//

Ⅵ 現代

p320
//「児童憲章」の精神を現代的・地球的規模で前進させていると言ってよい「国連=子どもの権利条約」は、20ヵ国が批准すれば国際法として効力が生じることになっています。わたしは、日本が早くこの条約に署名し批准をするようにと願っていますが、しかし、批准すると子どもにかかわる国内法に改正を必要とするものが出てくるため、日本政府は見て見ぬ振りといった態度です。//
※日本は1994年に批准。

p322
//保守派の男性からではなく進歩派フェミニストの男性から出ているこの考え、建前としては尤もだと思いますが、家事・育児が創造的で楽しい仕事だとあまりに強調されると、結婚以来その仕事わ妻とおんなじくらいやってきたわたしとしては「嘘をつけ、嘘を──」と言いたくなってしまいます。//

p331
//わたしたち日本民族の子育ての歴史を辿ってきて、さて、そろそろ筆を擱かなくてはならなくなったのですけれど、21世紀を目前にした現代日本の子育てとその結果としての子どもの状態は、一体どのようになっているのでしょうか。表面をざっと見わたすかぎり、その状態は、まずもって素晴らしいと言わなくてはなりません。//
p332
//原始時代このかた近代に至るまで、〈労働を猶予されている期間〉としての〈子ども期〉は、少しずつ延長されてきたとはいえ総体的に短かったわけですが、しかし、現代はそうではありません。義務教育としての初等教育を受けただけで職業に就く子も皆無とは言い切れないでしょうが、その数は極度に少なく、圧倒的に多数が高校から短期大学および大学へと進み、そこを卒業してから社会的労働に就くようになっているのです。
 高校を卒業するのが18歳、短期大学の卒業が20歳、大学のそれが22歳ですから、〈労働を猶予されている期間〉がどれほど長くなったかわかるでしょう。20世紀の後四半期としての現代、日本社会における〈子ども期〉は、前代未聞に長くなったと言わなくては正確でないのです!//……//子ども期の空前に長くなったことを、〈子どもの至福〉として慶賀せよと言われると、わたしは首をかしげざるを得ないのです。子ども期のこんなにも引き延ばされてしまったこと、かならずしも良いとは思えないものですから──//

p334 人間的自立
//かつては相当程度に円満な人間的自立ができていたのに、いま、どうしてそれが破綻し、〈ひずんだ人・歪みある人間〉を多く育てるようになってしまったのでしょうか。一言にして答えるならば、それは、二次大戦後の日本社会が資本主義経済のいわゆる高度成長をもくろんでそれに成功し、その結果、物質的に豊かにして且つ起居的に便利きわまる日常生活が実現したまさにその故である──と断じなくてはなりますまい。
 物質的に豊かで起居的に便利な生活は、人間の誰しもが望むところであり、原始時代このかたの人類の歴史は、そういう生活を求めてのいわば努力の歩みでした。そしてわたしたち日本民族は、縄文文化時代より三千年、弥生文化時代より二千年にしてようやくそのような生活を手にしたのですが、その幸福の正しく裏側に、人間自立にとっての暗い影がぴたりとはりついていたのだと表現すれば適切なのかもしれません。//
p336
//子ども期は長い上にも長くなったのに、子どもたちは〈全面的に自立すること〉ができなくなってしまったわけです。歴史のどの段階の子どもたちを見てもその状態はきびしかったけれど、あるいは、現代のそれがもっともきびしいのかもしれません──//

p336
//明快に説ききれなかったような気がしますが、物質的生活には恵まれながらしかし本質的には不幸の極にある現代日本の子どもたちは、一体どのようにすれば救われるのでしょうか。//
※この問題提起から、30年が経過している。

2026.5.27記す

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