||||| 一姫・二太郎 |||

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上笙一郎『日本子育て物語 育児の社会史』筑摩書房 1991年
p171 一姫・二太郎について(江戸時代において)
//〈夫婦のあいだに一番目に生まれるのは女の子が良く、二番目に生まれるのは男の子が望ましい〉というふうに解釈されているようです。けれども実はそうではなく、〈家〉を存続させてゆくために、〈女の子はひとりあればそれで良し、男の子はふたり必要である〉という意味であったのでした。〈男の子はふたり〉というのは、ひとりだけだと、病気や事故で死なれてしまったとき困るので、予備のためにもうひとり──というのです。
 すなわち、「一姫・二太郎」と、合わせて〈男女三人〉の子どもを確保してその余の子どもは間引いてしまうという基準です。//
 「間引く」という穏やかでない言葉が出てきました。

 保育士養成校時代、あるとき、「子どもが間引かれたと言われてきたけれど、間引くというイメージは間違っている」と話したら、ある女学生は猛烈に反撥してきた。何で読んだか思い出せず、つまり、具体的典拠を示すことができず、しかし、江戸期に間引くことがあたりまえのように捉えられている認識を否定したかった。学生がなぜ抗議してくるのか、なだめるのに必死になってしまった。「高校で、間引かれていたと先生が言っていた」というのである。そこまで訴えられてはなんとか典拠を示したかった。

p171
//この数値が何を意味しているかは、もはや説明するにおよびません。わが子を間引いていた江戸時代の農民階級の親たちは、もう一方では、飢饉の年ごとに、自分では食べないでわが子に食べさせ、わが子のいのちを守るために骨と皮ばかりになって死んでいったのです。正しく、生命を賭けた親の愛情であり、生命と引き換えの子育てであった──と言えるのではないでしょうか。//

 あった! やっぱりそうだったんだ! でも、もう遅い……。
 武器としての刀に用がなくなっていた。江戸時代は半ば、つまり家康から百年も経つと経済や文化が盛んとなった。
 1797(寛政9)年に生まれた大原幽学は、わが子だけでなく他人の子も慈しむ(翻って、わが子のためになる)教育実績を提唱しかつ実践し、1769(明和6)年に生まれた佐藤信淵(さとう・のぶひろ)は慈育館(保育施設)や遊児廠(しょう/幼児教育施設)を日の目を見なかったものの構想した。

2026.5.26記す

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