幼き子どもの生きた証は、どのように求めたらよいのだろうか。上笙一郎『日本子育て物語』(筑摩書房 1991年)の副題は「育児の社会史」とあり、原始時代から説き明かしている。そもそも「原始時代」をどのように解明していくのだろうと思った。
p302
//これまで記してきたことであきらかなとおり、日本の子どもたちの育ってきた道程には、過酷な風の吹き荒れた季節がしばしばありました。たとえば、〔①〕原始時代から古代にかけては社会全体が良くなかったため乳幼児死亡率がきわめて高く、〔②〕数百年つづいた封建時代の農民の子は「一姫・二太郎」の余〔「余ってしまった」の意「余」〕は間引かれてしまい、〔③〕そして近代の初期にあっては、多くの子どもが資本主義確立のための〈労働力〉として使い捨てられています。しかし、〔④〕昭和10年代という時期には、子どもが、〈労働力〉として使われるという域を越えて、外国との戦争における〈戦力〉として用いられたのです。//
①②③④を辿り、子どもたちの生きた証を上笙一郎流に把握することができた。そして、⑤に「現代(即ち「いま」)」が描かれ、第二次世界大戦後、高度経済成長期を経、豊かになったはずの子どもたちの「人間的自立」を問い、
p334
//かつては相当程度に円満な人間的自立ができていたのに、いま、どうしてそれが破綻し、〈ひずんだ人・歪みある人間〉を多く育てるようになってしまったのでしょうか。一言にして答えるならば、それは、二次大戦後の日本社会が資本主義経済のいわゆる高度成長をもくろんでそれに成功し、その結果、物質的に豊かにして且つ起居的に便利きわまる日常生活が実現したまさにその故である──と断じなくてはなりますまい。
物質的に豊かで起居的に便利な生活は、人間の誰しもが望むところであり、原始時代このかたの人類の歴史は、そういう生活を求めてのいわば努力の歩みでした。そしてわたしたち日本民族は、縄文文化時代より三千年、弥生文化時代より二千年にしてようやくそのような生活を手にしたのですが、その幸福の正しく裏側に、人間自立にとっての暗い影がぴたりとはりついていたのだと表現すれば適切なのかもしれません。//
p336
//子どもたちは〈全面的に自立すること〉ができなくなってしまったわけです。歴史のどの段階の子どもたちを見てもその状態はきびしかったけれど、あるいは、現代のそれがもっともきびしいのかもしれません──//
山極寿一×関野吉晴『人類は何を失いつつあるのか』朝日文庫 2022年
p172
//〔関野吉晴〕ただ、私たちが若かった高度経済成長の時代と現在とでは社会環境が大きく違っていて、経済も右肩下がりで景気も悪く、格差も広がっている。おまけに高齢社会だし、さまざまな管理も進んで社会的な抑圧が強くなるなか、人間の自由度も薄まっています。
そんななかで活路を見いだせずにいるのか、いまの若い人たちなんじゃないでしょうか。だから結局、無駄なことをする余裕もなくて、みんないますぐに役立つ資格や知識ばかりを追い求めてしまう。//
2026.7.1Rewrite
2026.5.27記す
