||||| 明治初年、日本は、子どもの楽園だった |||

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渡辺京二『逝きし世の面影』平凡社 2005年
+ 第10章 子どもの楽園(p387-426)

p388
//日本について「子どもの楽園」という表現を最初に用いたのはオールコックである。彼は初めて長崎に上陸したとき、「いたるところで、半身または全身はだかの子供の群れが、つまらぬことでわいわい騒いでいるのに出くわ」してそう感じたのだが、この表現はこののち欧米人訪日者の愛用するところとなった。
 事実、日本の市街は子どもであふれていた。//

──と、スタートを切るが、まず断っておく。
p420
//最後に欧米人観察者の「子どもの楽園」論に対しては、当然日本人の側から反論があることを紹介しておきたい。萩原竜夫はモースの言辞を引きながら「しばしば日本は子どもの楽園だといわれた。われわれにはそれが過褒〔かほう〕だとしか思えない」と述べ、宮本常一の『家郷の訓』を援用して、「明治・大正を通じても乳幼児の死亡率は非常に高かった」ことをもってモースら外国人観察者への反証としている。しかし、これはまったく筋違いの議論というほかはない。幼児死亡率の高さということと、子どもに対する甘やかしに近いような可愛がりかたとは、まったく別次元の問題である。近代初期には、ヨーロッパとて幼児死亡率は高かった。一方、日本人は子どもを打たないというのは、すでに16、7世紀の交より異邦人の認めるところだった。徳川期日本でも近世ヨーロッパでも乳幼児の死亡はいたしかたない神の意志であって、そのことと子どもが幸せかどうかは関係のないことであったのだ。//


p389
//エドウィン・アーノルドは1889(明治22)年来日して、娘とともに麻布に家を借り、1年2ヵ月滞在したが、「街はほぼ完全に子どもたちのものだ」と感じた。//

p390
//「私は日本が子供の天国であることをくりかえさざるを得ない。世界中で日本ほど、子供が親切に取り扱われ、そして子供のために深い注意が払われる国はない。ニコニコしている所から判断すると、子供達は朝から晩まで幸福であるらしい」// と語るのは、1877年に来日してきた動物学者モースだ。

p392
//カッテンディーケは長崎での安政年間の見聞から、日本人の幼児教育はルソーが『エミール』で主張するところとよく似ていると感じた。「一般に親たちはその幼児を非常に愛撫し、その愛情は身分の高下を問わず、どの家庭生活にもみなぎっている」//……//「彼らほど愉快で楽しそうな子供たちは他所では見られない」//

p393
//ツュンベリは「注目すべきことに、この国ではどこでも子供をむち打つことはほとんどない、。子供に対する禁止や不平の言葉は滅多に聞かれないし、家庭でも船〔旅行中の船旅〕でも子供を打つ、叩く、殴るといったことはほとんどなかった」と書いている。//

p397
//徳川期の文明はこのように、大人と子どものそれぞれの世界の境界に、特異な分割線を引く文明だったのである。そのような慣行は明治の中期になってもまだ死滅してはいなかった。しかしそのように、子どもの自立した世界を認める文明は、また一方では、大人の生活のあらゆる面に子どもの参加を認める文明でもあった。//
p399
//徳川期の日本では、大人と子どもの分割線の配置が現代とは異なっていた。フィリップ・アリエスはヨーロッパでも近世に至るまで、子どもは小さな大人として扱われ、子どもという特別な人生のステップは認められていなかったと言うが、それはどうだろうか。人類史上の年齢階梯制の普遍性からいっても、子どもと大人の分割線を設けない文明があるはずはない。アリエスの言うのは、18世紀後半以降に設けられたような、特殊近代的な子どもと大人の分割線は、それ以前において存在しなかったということにすぎない。//
p399
//チェンバレンは日本の「子供の服装は、大人の服装をだいたい小型にしたものだ」と言うが、バードもそれとおなじことを書いている。「子供に特別な服装はない。これは奇妙な習慣なので、何度でも繰り返さないわけにはいかない。子供は3歳になると着物と帯をつける。……この服装で子供らしい遊びをしている姿はグロテスクなものだ」。ジェフソン=エルマーストもいう。「子供が大人とまったくおなじ衣裳をしているという事実は、初めわれわれの眼には、彼らにひどく滑稽な外見を与えるものに見えた。2歳の児と70歳の老人が正確におなじ種類の衣服をまとっている。後者を向きに逆にしたオペラグラスで見ると、前者のように見える」。これはアリエスがブリューゲルの絵などを論拠として、中・近世のヨーロッパでは子ども特有の衣裳というものはなく、子どもは大人の服を小さくしたものを着ていたというのと、同一の状況をあらわしている。//

p404
//モースは来日間もなく田植えの風景を見たが、親も子もいっしょになって働いている傍らの田の畔(くろ)では、小さな子が赤ん坊を背負って一家のすることを見物していた。「子ども六人いれば五人まで、必ず赤坊を背負っている」と彼は記している。//
p404
//「出会う女性すべて、老若の婦人も若い娘も、背中に子供をおぶっていること」におどろかされた。しかも「肩にしている赤ん坊とほとんど同じくらい小さな子供に、こうして背負われている子供さえ見える。これほどの子供をどこで〔他の国で〕見つけられるだろうか」// と、エミール・ギメが語っている。
 子守をする子どもが一般であることや家庭の貧困は課題ではあるが、おさなごを片時も離さず愛情をもって育てているということを強調している。
 夫婦の生活から子育てが切り離されている西洋に対して、子育て事情の違いに驚いている。

p410
//そしてモースもまた述べる。「日本人は確かに児童問題を解決している。日本の子供ほど行儀がよくて親切な子供はいない。また、日本人の母親ほど辛抱強く愛情に富み、子供につくす母親はいない」。//

p411
//彼はこの女の子らを二人連れて、本郷通りの夜市を散歩したことがあった。十銭ずつ与えてどんな風に使うか見ていると、その子らは「地面に坐って悲しげに三味線を弾いている貧しい女、すなわち乞食」の前におかれた笊〔ざる〕に、モースが何も言わぬのに、それぞれ一銭ずつ落し入れたのである。この礼節と慈悲心あるかわいい子どもたちは、いったいどこに消えたのであろう。しかしそれは、この子たちを心から可愛がり、この子たちをそのような子に育てた親たちがどこへ消えたのかと問うこととおなじだ。//
※著者/渡辺京二の「いま」のことだろう。礼節と慈悲心のある子が消えてしまったということか。

2026.5.28記す

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