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三谷博『維新史再考』
+ 副題:公議・王政から集権・脱身分化へ
+ NHK出版 2017年

p4
//維新というと、とかく活躍した特定の藩や個人、そして彼らの敵役に注目しがちである。しかし、この選択は実は後世になされ、定着したものである。具体的には、およそ明治の末期から形成されて、文部省『維新史』全五巻(1939-42年)で集大成された。それは政治的には対極の立場にあった戦後の維新史学にも継承されている。いまでも多くの人はこれらで設定された枠組みに囚われているように見える。世襲身分制の解体と犠牲の少なさ〔p327〕という基本的事実が忘れられがちなのは、そのせいに違いない。//

p17
//19世紀の日本におきた明治維新は、人類史の中で何度か生じたグローバル化の波のうち第4波のなかで生じたことであった。グローバル化の第4波は18世紀の西洋に発生し、19世紀に加速して、現在まで続いている。//
p307
//〔明治維新の〕発端には大まかな目標だけがあったのだが、十年後〔1968年明治1/1877年明治10西南内乱〕には人類史上稀に見る大規模な社会変革が実現していた。//

  • グローバル化の第1波……//人類の移住//p18
    • p18 //ヒトが遺伝的に現在のサルたちの祖先から枝分かれしたのは数百万年前のアフリカでの出来事だったといわれている。その後、人類は何度かにわたってアフリカを旅立ち、ユーラシア大陸に拡がった。熱帯と異なって、ユーラシアの温帯は寄生虫や病原菌が少なかったため人類は各地で繁殖しはじめた〔マクニール『疫病と世界史』中央公論新社2007年〕。言葉、さらに狩りの技術や衣服を発明した現生人類に至っては、狩りへの警戒心がない動物たちを追って寒帯まで進出し、当時は陸橋でつながっていたアメリカ大陸へも渡って、1万数千年前にはその南端にまで到達した。20万年ほど前に登場した現生人類は、いまもなお一つの種として存在し続けている。//
  • グローバル化の第2波……//リレー式交易と軍事遠征//p19
    • p20 //縄文時代の遺跡には、かなりの遠隔地に産出する黒曜石で作られた石器//……//モノの交換はときに技術の伝播を伴い//……//特定のモノが多様なモノと交換されうる媒体として選び出されて、貨幣〔たとえば、布や米や、ある貝〕となった//……//感染症//……//宗教//……軍事的征服がもたらした文化交流
  • グローバル化の第3波・第4波……西欧の大航海時代。『銃・病原菌・鉄』
    • p23 //グローバル化の第3波は18世紀末から加速され、現在に至っている。これは、科学の技術への結合を基礎として展開し、「王権」「国民」「民主」といった新たな秩序範型の伝播を伴いながら、真に地球を一体化させていったので、第4の波と見なすのが適当だろう。//
    • p24 //電気の発見は、今日のインターネットのように世界を瞬時に結びつける可能性を開いた。電気は科学により初めて可能になったエネルギーで、19世紀に生まれた技術・科学結合の特徴をよく示している。それは当初、エネルギーとしてよりは通信手段として注目された。電気は光の速さで遠隔地を結びつける。//
      • ※光の速さに到達した文明は、この先たとえば1万年先、光を超える文明は到来しないはずだから他の宇宙に脱出することになるのだろうか。指数関数的に進化する技術を背景に果たして1万年ももつだろうか。1千年すらもたないかもしれない。
  • グローバル化の第4波
    • p27 //19世紀半ばには、西洋が引き起した長期的・不可逆な変化が太平洋地域にも及んだ。それは、ユーラシア東端の海中にある国、日本に明治維新という激変を引き起こし、やがて19世紀末から20世紀に東アジア全体、さらに世界を変えてゆくことになる。//

p23
//18世紀のイギリスでは茶の消費が急増したが、それは東インドにある中国から輸入される茶葉と、属領である西インドに設けたプランテーションで生産される砂糖とを組み合わせて進行したものであった。〔角山栄『茶の世界史』〕//

p35
//19世紀に西洋が強く関与し始める以前の東アジアには、近代の国民国家における自他の峻別・他者の排斥という原理とは別の秩序観があったのである。//

p50
//近世人の日常語を使って、大名の統治組織を「国家、江戸の王権を「公儀」、京都の王権を「禁裏」と呼ぶことにする。//

p53
//近世の侍は、細かく分かれ、拘束性の強い身分制の中で一生を送ったのであり、その点は維新以後との大きな違いとして十分留意しておかねばならない。//

p57
//「禄あるものには権を与えず、権あるものには禄を与えず」//……//この制度は、幕末に中下級の武士たちが大きな役割を果たす前提となった。彼らの政治的経験と知識は上級武士以上に豊富となっていたし、重臣や大名が彼らの進出に身分的な反感をいだくこともある程度抑制したからである。//

p84
//この塾は「三奪法(さんだつほう)」で有名であった。学生の間の席次を、年齢を言わず、入学以前の学歴を言わず、身分や家柄を言わず、学力によってのみ定める規則が実行されたのである。それは、福沢諭吉が『福翁自伝』で描いた緒方洪庵の蘭学塾、大坂の適々斎塾でも同じであった。大名が設けた藩学では強い身分的制限が課されるのが普通だったが、その教官が自宅で開いていた私塾はやはり身分を問わなかった。塾は世間的な身分が消滅する場であり、そこで出会った人々は身分の違いを越えた交際を結ぶようになったのである。//
p86
//このように、学問や武芸の塾は地域と身分を超えた水平的ネットワークを近世後期の日本に創りだした。//

p98 //会沢正志斎の『新論』(1825年成稿)//は、尊王攘夷論。
p100 //古賀侗庵の『海防憶測(おくそく)』(1838年以降執筆)//は、積極型開国論。
p103 //ペリーの来航までの時期の多数意見〔現状維持論〕//は、鎖国論。
p103 //ペリーの軍事的威圧を受けると、避戦のために消極的開国論に移ってゆくことになった。//

p103
//尊攘論はペリー来航の前後、一世の注目を浴びることになったが、その一部はごく早期に積極型の開国論に移った。しかし、この移行は、吉田松陰とその門下に典型的なように、安定したものではなかった。攘夷論に戻ったり、また開国論に反転したり、行きつ戻りつ、揺れ動いたのである。この不安定さは必ずしも対外関係から来たものでない。攘夷論者と積極型開国論者は、のちに見る藤田東湖と橋本左内の関係のように、改革という点ではしばしば提携した。論者たちの意見は開鎖の問題については状況の変化に応じて変わったが、内政改革については揺るがなかった。改革を目ざすか保守に徹するかという態度は一貫していたのである。この事実は、幕末の対外論を見る場合、西洋への対処法よりは、内政改革の可否をめぐる対立の方が重要だったことを示唆している。//

p124
//〔西洋側は〕慶応元(1865)年秋、神戸沖に連合艦隊を送り、当時、大坂城に滞在していた将軍家茂に対し、条約の勅許を獲得するように圧力を加えた。この行動は家茂が一旦政権返上を上奏するなどの波乱を引き起こしたが、その結果、天皇はついに条約を勅許した。兵庫の開港は不可という条件付きであり、それは内政面でかなりの問題を残したものの、対外関係上の基本問題はここでほぼ解決したのである。翌年には庶民の海外渡航が許可され、国民は当時西洋でも導入が始まったばかりだったパスポートを手にしつつ海外に出かけるようになった。
 以上のように、安政5〔1858〕年以来、国内に幾多の混乱を生んできた西洋への開国問題はこの年にほぼ決着がつき、さらに、近世初期以来の制度だった日本人に対する出入国の禁もさしたる異論もなしに解かれた。ここに「鎖国」体制は解体し、明治日本の国際関係の枠組みが成立したと言って良い。//

p125
//他地域で侵略をためらわなかった西洋諸国は日本では専ら市場の確保にのみ関心を注いでいた。攘夷論が日本政府を圧倒するかに見えた文久3〔1863〕年、英・仏は小規模の軍隊の横浜駐留に踏み切り、薩摩や長州と戦った。しかし、それは条約を批准し、攘夷論者の政策転換を促すのが目的であり、賠償に際しても領土の割譲要求は避けている。当時、世界ではしばしば、西洋諸国との小さな紛争が軍事衝突に拡大し、その結果として、西洋の領土が徐々に拡大することが見られたが、日本はそれを免れたのである。//

p432 明治維新史 主要事項年表 (一部/月日は旧暦)

  • 1853 嘉永6…6月 米ペリーが浦賀に来航
  • 1854 安政1…3月 日米和親条約を締結。英・露とも開港条約
  • 1855 安政2…蘭、観光丸を寄贈。長崎で海軍伝習開始
  • 1856 安政3…8月 阿部、通商による富国強兵策に転換。堀田正睦を老中再任
  • 1857 安政4…3月 堀田、通商・通信への漸進策を決定
    • 8・9月 蘭・露と追加条約で通商を規定
    • 11月 米ハリス江戸城で将軍と謁見。越前橋本左内・薩摩西郷隆盛、大奥に一橋慶喜を入説
  • 1858 安政5…2月 堀田、対米条約の勅許を求めて状況。水戸陰謀論登場
    • 3月 孝明天皇、大名への再諮問後に再上奏せよと命令
    • 4月 井伊直弼、大老就任
    • 6月 日米修好通商条約に調印。徳川斉昭・松平慶永ら不時登城。徳川慶福の嗣立公表
    • 7月 大老、不時登城関係者を一斉処罰(安政五年政変
      • 蘭・露・英・仏(9月)とも修好通商条約を締結
    • 8月 天皇、水戸に幕政批判の勅を下す(戊午の密勅)
    • 9月 京都で尊攘志士の逮捕開始。関白九条尚忠の地位動揺
    • 10月 徳川家茂、将軍就任
    • 12月 天皇、条約の事情了解、和親条約への引き戻し猶予
  • 1859 安政6…2月 左大臣近衛忠熙以下の廷臣、辞官・落飾・謹慎
    • 7月 横浜・長崎を条約国に開港、通商開始
    • 8月 幕府、徳川斉昭永蟄居。松平慶永・徳川慶勝、一橋慶喜隠居・謹慎。山内豊信謹慎。堀田正睦ら隠居。岩瀬忠震・永井尚志ら免職・謹慎。水戸安島帯刀ら死刑。他に遠島・追放など多数
    • 10月 橋本左内死刑。長州吉田松陰死刑(以上、安政の大獄
    • 11月 薩摩島津忠義、大久保利通ら「誠忠組」に鎮静を要請
    • 12月 幕府、水戸に勅諚返納の朝旨を伝達
  • 1860 万延1…1月 遣米使節、批准書交換のため出発。咸臨丸も渡航
  • 3月 水戸浪士ら、井伊大老を暗殺(桜田門外の変
  • 1863 文久3…8月 大和行幸の詔勅。中山忠光ら大和で挙兵 宮廷クーデタにより尊攘派が京都退去(八月十八日政変
    p196 //八月十八日の政変を境に潮目が変わった。尊攘激派が京都を立ち去った後、彼らに翻弄されていた大大名と幕府要人が京都に集まり、朝廷上層部と提携しつつ、秩序の再建に取りかかったのである。//

p156
//もはや、安政五年以前、二百数十年の泰平に戻ることはできない。幕府の外に生きる人々は秩序崩壊を予感するようになった。どんな世の中になるか分からない。しかし、ともかく今まで通りの世は続かないだろうという予感である。//

p162
//幕末の最終局面では「王政復古」が決め手となり、鳥羽伏見の戦いの後は、その主導者は薩摩・長州となった。しかしそれ以前の幕末史は、担い手もそれらの提携・対抗関係もずっと複雑であった。//
p162
//20世紀に書かれた維新史では、しばしば最も急進的な道を選んだ長州と尊攘運動が重視されたが、実のところ、安政5年政変の際、長州は政界に存在しなかった。明治維新を理解するとき、最終的な勝利者にのみ注目し、その意志と努力が実る過程として縮小表現するのは公平な見方ではない。//
p162
//明治期を含めると約20年に及んだ政治変革の過程では、尊攘に限らず、多様な政治課題が登場し、それらを解決しようと様々な政治勢力が競争と提携を試みた。//

  • 1866 慶応2…1月 薩長盟約(立合い坂本龍馬)。朝廷、長州処分案を勅許
    • 6月 幕長開戦
    • 7月 家茂病死 //それを機に戦争は終わった。//p237
    • 12月 孝明天皇死去。翌年正月、明治天皇践祚(せんそ)
  • 1867 慶応3…12月14日 王政復古を布告
  • 1868 慶応4 明治1…1月3日 鳥羽・伏見の戦い勃発
  • 1877 明治10…2月 西南内乱勃発(-9月)

p181
//当時の朝廷では、主張が攘夷即行から王政復古にエスカレートするにつれ、幕府を下位に置くべしとの議論が沸き起っていたが、幕府はそれを真正面から受入れたのである。これは、徳川の公儀〔江戸の王権〕は事実上禁裏〔京都の王権〕の上にあるという、安政五年政変以前には江戸の常識であった秩序観を覆す措置であった。近世を通じて曖昧だった天皇と将軍の関係は、この時を境に明確化された。すなわち、天皇を一義的に将軍の上に立てることが公認されたのである。// ※公儀/禁裏 p50

p327
//戊辰内乱は同時代に起きたアメリカ南北戦争や普仏戦争に比べれば小規模の域に留まった。アメリカ南北戦争は約5年間続き、その戦死者は61万人余に上った。普仏戦争は期間は10ヵ月ほどで戊辰内乱とさほど変らないが、死者の数はドイツ側が約4万5千、フランス側が約14万、合計18万5千ほどであった。その前の普墺戦争まで加えると死者の数はもっと大きくなる。死者が約1万3千余人だった戊辰内乱は戦争自体の規模として大きいとは言えないだろう。//
p328
//しかし、その〔戊辰内乱の〕政治的・歴史的意味は大きかった。新政府への抵抗勢力がなくなり、その正当性が確立したというに留まらない。むしろ、その副次効果に絶大なものがあった。武家の世襲身分制に与えた打撃がそれである。
 打撃はまず新政府による兵力動員から始まった。新政府は諸藩の動員に当り、小銃と大砲を備えた部隊のみを要求した。これは伝統的な武士による戦闘隊形の否定であった。戦国までの戦闘は、煌(きら)びやかな甲冑に身を固めた侍が、馬上ゆたかに多くの従者を従えて出陣するのが基本形であった。しかし、新政府の首脳は、長州戦争の経験から銃隊以外は戦力にならぬと知っていたのである。銃隊では、身分の上下を問わず単身で隊伍に入り、対等な立場で行動せねばならない。上級武士がその地位を維持したいなら将校になる以外にないが、それは事前に教育を受け、戦術に熟達した者のみに可能なことであった。将校になれない者は後方に留まる外はない。その上、実戦で武功を挙げた者は当然、戦後に報賞として地位を引上げられ、無功の者は評判を落すことになる。新政府軍がこのように組織されると、対抗する側も同様の組織を作らねばならない。こうして、諸藩に動員がかけられ、実戦が展開する中で、敵味方を問わず、武士の地位の平準化が進んだのである。//

p344
//廃藩の直後、政府は世襲身分を解体する様々の措置を一気に展開した。まず、明治4(1871)年8月9日に散髪脱刀の許可が布告されたが、これは当時最も分り易かった身分標識の除去を促す措置であった。近世まで日本人の身分は髪型でほぼ識別できた。//
p345
//帯刀も重要で、庶民も短い脇差しは差したが、大刀(だいとう)と脇差しの2本を帯びるのは武家に限られていた。この布告の後も結髪(けっぱつ)を続ける人はあり、脱刀も個人の意思に任されていて、一律に帯刀禁止が行われたのは明治9年のことであった。しかし、この散髪・脱刀許可の措置によって身分標識が曖昧になり、身分の識別が難しくなったのは確かである。//
p345
//続いて8月17日には士族の庶民への敬礼強要や無礼討ちが禁じられた。23日には婚姻が華族から平民に至るまで自由化され、さらに28日には穢多(えた)・非人(ひにん)の称を止めて身分・職業とも平民同様とすることが布告された。これらは年末の12月18日に布告された華士族・卒に対する農工商就業の許可と相まって、政府が廃藩を機に脱身分化の方針を社会一般に拡充する急進政策に打って出たことを示している。//……//これら一連の脱身分化政策を立案し、実行していったのは大蔵省で、その中心にあったのは渋沢栄一であった。//
p362
//士族はこの脱身分化という社会的激変をもっとも鮮明に体現したと言えるだろう。//

p384
//世界の近代化は、民主化の初期に暴力と言論とが手を携えて登場することを示している。この両者がいつ、どのようにして袂(たもと)を分つのかが近代史の見所なのであるが、日本の場合は西郷の引き起こした大規模な内乱が逆説的にも暴力との訣別の関門となったのである。//

p358
//廃藩はその軍隊の解散も意味したから、いわば武力反乱の可能性を借金の棒引きで軽減したと見なすこともできる。//

p383
//味方を雪だるまのように増やして政府を追込むには明確な大義名分が不可欠だったはずである。西郷は人一倍、大義を重んずる人物であり、第一次長州征討や征韓論争の際には自らその意義を力説している。その西郷はこの一世一代の大反乱を起したとき、何も語らなかった。謎と言うほかはない。
 ともかく、この西南内乱は、約1万5千という戊辰内乱全体に匹敵するほどの犠牲者を出して終った。死者の少ない明治維新の中では稀に激しく大規模な戦いであった。とくに根こそぎ動員をかけられた鹿児島県での若者の犠牲は顕著であった。しかし、鹿児島に西郷を恨む声は少ない。逆に大久保たち在官人への冷たさは未だに続いているかに見える。これまた大きな謎である。//

p387
//喩えて言えば、近世末期の日本は発酵を始めた液体に満たされたもろい瓶のようなものであって、ペリー来航を機に様々の政治運動によって揺さぶられると、中身が一気に噴出して瓶まで破壊してしまったという観がある。//

p397
//王政復古による政権の一元化は内生的なものであって、西洋の「主権」の原理を参照して行ったものではなかった。そもそも世界一般に君主はただ一人なのが普遍的な姿なのであって、600年あまりそこから逸脱していた日本は、西洋による侵略に深刻な危機を感じた時、政権の一元化〔朝廷と幕府の一元化/王政復古〕を緊急課題と認識した。//
p402
//これ〔西洋〕に対し、維新期の日本では逆に、「王政復古」は人々の「国民」化や「公論」を促進した。//

p402
//これら脱身分化の措置は「一君万民」を理想としてなされ、それが、同等の権利を持つ「国民」を形成したのである。//

p403
//明治6年の政府大分裂の後に提唱された民選議員は同時代西洋の理想と制度を参照し、借用することなくしてはあり得ぬことであった。民間から議員を選挙して法律と予算の決定を委ねよという発想は日本や東アジアの伝統にはなかったものである。//

2026.6.8記す

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