村上陽一郎 編『「専門家」とは誰か』晶文社 2022年
p16:村上陽一郎、執筆
//現在の大学の殆どすべてが、大学本体として学部・学科制度を持っている点で、恐らく、この中世ヨーロッパに生まれた大学の構成に近い現代の大学としては、アメリカの一部の大学がなお自らそう呼称している「リベラル・アーツ・カレッジ」のみである(日本で、この構造に近い大学は、東京にある国際基督教大学だけであろう)。
英語で言う〈liberal arts college〉にある〈liberal arts〉とは、中世大学に(より正確には「哲学部」に)入学した学生たちが、等しく修得を期待された〈artes liberales〉に由来している。「自由七科」と通常訳されるこの概念は、「三科」〈trivium〉と「四科」〈quadrivium〉とに分かれていて、「三科」は論理学、文法、修辞学を、「四科」の方は、天文学、幾何学、算術、音楽を指すものとされる。〈trivium〉というのは〈tri+vium〉であって、〈via〉はラテン語では「道」の意味を持つ。航空便を示す封筒の文字は〈via air〉とされるように、現在の英語でも「の道を経て」〈by way of〉という意味の前置詞としても、常用されている。〈tri〉は勿論「三」、〈quad〉は「四」である。因みに〈quadtrivium〉は、現代英語では「四辻」の意味を表わす。〈trivium〉も「三叉路」として使えるはずである。//
p18
//さて、「三科」と言い、「四科」と言い、「科」つまり先に述べたドイツ語の〈Fach〉に相当する概念が、中世ヨーロッパの大学にもあったではないか、と思われるかもしれない。しかし、これまでの記述でもある程度暗示されていると思われるが、言葉の上でも〈artes〉というラテン語が使われているところに注意を払わなければならない。その語源となったラテン語の〈ars〉を羅英辞典で引いてみると、端的に〈skill〉、〈way〉、〈method〉という訳語が与えられている。ここでも〈way〉つまり「道」が姿を現すが、要するに、学問上の分類を示すような用法は、全くないと言ってよい。無論〈ars〉は、日本のカタカナ語の「アーツ」の語源でもあり、現在では、「技芸」、さらには「芸術」も意味する。英語でも、今は「芸術」が最初に浮かぶ概念であるが、本来は「業(わざ)」、「技巧」、「手腕」、時には「術策」から「狡猾さ」の意味さえ与えられている語である。重ねて確認しておこう。〈arts〉は、学問上の細かな〈Fach〉の意味は持っていないのである。
強調したかったのは、中世ヨーロッパに生まれた、学問の府である大学では、学問は「一つ」であって、それは哲学であり、それを追い求める素養として、あるいは追い求めるために身に着けておくべき業として、「七科」があった、という点である。//

石井洋二郎+藤垣裕子『大人になるためのリベラルアーツ』東京大学出版会 2016年
pⅸ:石井洋二郎、執筆
//つまりリベラルアーツとは本来、人間を種々の拘束や強制から解き放って自由にするための知識や技能を意味する概念なのだ。このことはしばしば忘れられがちなので、ここであえて強調しておきたい。//
pⅸ 要約
第1のリベラルアーツ 知識の限界
第2のリベラルアーツ 経験の限界
第3のリベラルアーツ 思考の限界
pⅹここまでは //基本的に大学に入学したばかりの学生たちを対象とした教育プログラムの中に溶かし込むことができるし、実際にさまざまな形で実行されてもきた。//
***
第4のリベラルアーツ 領域の限界 →「異分野交流ゼミ・多分野協力論」
pⅹ//特定の専門領域に「囚われて」さえいない者を「解放する」ことなど、理屈としてできない//……//「狭い専門性に囚われかけた段階でこそ、これを相対化する視野を」//
***
pⅻ
//したがって正確にいえば「授業」というよりもアクティブ・シンキングによる「作業」に近い試みとして、この科目〔異分野交流・多分野協力論〕は構想されたのである。
pxv
//たとえば高校や大学の授業で、討論形式の「アクティブ・ラーニング」の教科書としても活用していただけるのではないかと思う。//
***
pⅻ
//思うに、あらゆる学問が最終的にめざすべきは「存在の限界」からの解放であり、「自分という限界」からの解放ではなかろうか。//
石井洋二郎+藤垣裕子『続 大人になるためのリベラルアーツ』東京大学出版会 2019年
pⅳ~ⅵ 要約
期待されている3つの資質/能力
・問題構成力
・批判的思考力
・市民的倫理観
pⅵ
//「大人になるためのリベラルアーツ」というタイトルが英語では《Liberal Arts Education for Developing Mature Citizens》と訳されていることに、あらためて注意を促しておきたい。//……//「成熟した市民」Mature Citizen //
- 思考演習(大人になるためのリベラルアーツ①)
- コピペは不正か
- グローバル人材は本当に必要か
- 福島原発事故は日本固有の問題か
- 芸術作品に客観的価値はあるか
- 代理出産は許されるか
- 飢えた子どもを前に文学は役に立つか
- 真理は1つか
- 国民はすべてを知る権利があるか
- 学問は社会にたいして責任を負わねばならないか
- 絶対に人を殺してはいけないか
- 議論によって合意に達することは可能か
- 差異を乗り越えることは可能か
- 思考演習(大人になるためのリベラルアーツ②)
- 気候工学は倫理的に許されるか
- 成人年齢は引き下げるべきか
- 速く走れる人間をつくってもよいか
- 芸術に進歩はあるか
- 人工知能研究は人為的にコントロールすべきか
- 民主主義は投票によって実現できるか
- 軍事的安全保障研究予算をるらってもよいか
- 絶対に人を殺してはいけないか
- ①と同じテーマだが、問題提起文のほかは異なる
- 学問は社会にたいして責任を負わねばならないか
- ①と同じテーマだが、問題提起文を含め異なる
- 自由と公共性は両立するか
- 議論によって合意に達することは可能か
- ①と同じテーマだが、問題提起文がなく、内容がまったく異なる
- プライバシーと治安は両立できるか
2つの本を上記のように整理(読書メモ)したことには、冒険的意図がある。乳幼児に始まる子どもの「遊び」が意味するところに、心身の発達において、問題構成力/批判的思考力/市民的倫理観の萌芽が見られる。
年長者から遊びを習得するに分析的思考が働いている。(※1)「なにするん?」「(遊びの)始まりを習得する」「勝負の価値、おもしろさ、くやしさ」等々。「ずるい」と批判する、では、どうすればよいかを提案する。ルールを守ろうとし、ルールをつくろうともする。年齢差や発達の遅れをかかえこむことのできる倫理観を備えている、育む。
こうした遊びは対人的、きょうだい、少人数であったり、大きな集団のこともある。遊びにはテーマが必要だが、テーマに「○○あそび」「おにごっこ」「かくれんぼ」「ままごと」等、名称がともなうものだけでなく、名称不明も多々ある。それらのなかには、昔遊び/伝承遊びというものがあるが、まちに子どもの遊び場所(だけではないが、※2)が喪失したことにあわせて、1990年代(※3)には、伝承されてきた遊びについては全国的にほぼ消滅したといわれる。つまり、心身の発達において遊びが必要な時期に、十分遊ばずに育ってしまった〈おとな〉がきわめて多くいるということだ。一例をあげると、1990年に10歳だった子どもは2020年には40歳に達している。そうした〈おとな(モラトリアム人間)〉の学び直し(※4)としてリベラルアーツをあててみたいと、わたしは考えている。
※1……いつから「おとな」で、遊びを考える。
※2……「みち 道」は、だれのもの?
※3……「わらべうた」と音楽教育
※4……「つまずきポイント」を発見

村上陽一郎 編『「専門家」とは誰か』晶文社 2022年
p35:藤垣裕子、執筆
//リベラルアーツは、古代ギリシャを源流とするラテン語のアルテス・リベラーレス(英訳はリベラルアーツ)を語源とし、人間が奴隷ではなく自立した存在であるために必要とされる学問を指している。この概念は、ローマ時代末期に自由七科(文法学、修辞学、論理学、代数学、幾何学、天文学、音楽)の形で具現化され、中世ヨーロッパの大学での教育の礎を提供した。//
p47
//壁の境界を外に開き、壁を所与と考えないで再考するために異分野交流はある。つまり、異分野摩擦〔つまずき〕は忌避すべきものなのではなく、リベラルアーツへの出発点なのである。//
p49
//そのような柔軟性は、実は欧州を中心に議論されている「責任ある研究とイノベーション」(Responsible Research and Innovation、以後RRI)においても必要とされているものである。RRIとは、欧州の科学技術政策ホライズン2020(2020年をめざした科学技術政策の展望)のなかで用いられていた鍵概念である。この概念を説明する文章には、「RRIは、研究およびイノベーションプロセスで社会のアクター(具体的には、研究者、市民、政策決定者、産業界、NPOなど第三セクター)が協働することを意味する」とあり、オープンイノベーション、オープンアクセス、オープンスペースと参加、相互学習といったものが説明のなかで挙げられている。このような協働にとって、隣の領域に口出しすることや、往復による柔軟性は不可欠である。//
p51
//RRIの具体例が日本に与える示唆は、科学と社会との間に発生する課題に対処するときに、壁をこえる(組織を開く)ことの具体例を与えてくれる点である。たとえば、2011年の東日本大震災時の原子力発電所事故を例にとって考えてみよう。//……//地震による大津波発生により、福島第一原発の冷却装置の電源喪失がおこり、炉心崩壊に至る危険性は、東日本大震災前にすでに原子力安全・保安院と東京電力との間で共有されていた。1966年の福島第一原発の設置許可申請以後、地球科学で発展したプレートテクトニクス論や、活断層についての調査、および貞観地震(1869年)の大津波発生の記録などを元に、日本の津波研究者は警告を発した。しかし、それらが反映された七省庁手引書(1997年)や地震調査研究推進本部(阪神淡路大震災後、1995年に総理府に設置された)の長期評価(2002年)による再三の警告にもかかわらず、福島第一原発の津波対策は改善されなかった。その際の東電の判断は密室で行われ、地域住民には公開されていなかった。もし上記〔※★下段〕のようなマリーナ・プロジェクトにおける相互学習ワークショップを津波事例に応用していたら、どうなっていたであろうか。七省庁手引きで日本海溝の津波地震の予測が出された後、あるいは地震本部の長期評価の後、それらの算定結果をもとに東電、保安院、中央防災会議、土木学会、地震研究者、そして地域住民とで参加型のワークショップを開いていたら、どうなっただろうか。
この問いこそが、「隣の領域に口出しする」ことの意味である。//
p50 ※★
//個別分野の研究へのRRiの例として、イタリアを中心に展開されたマリーナ・プロジェクトを紹介しよう。//……//これは、責任ある海洋科学研究とイノベーションを目的とし、その成果を市民に還元することをうたったプロジェクトである。市民を動員した相互学習ワークショップを欧州12か国で17回開催しており、このワークショップには、のべ402人の利害関係者(81人の市民、66人の行政官、65人の企業からの参加者、104人の科学者、58人のNGOからの参加者、24人の学生、4人のジャーナリスト)が参加している。まさに「共につくる」空間の実践であるこれらのワークショップでは、持続的な(環境にやさしい)ツーリズムのありかた、海岸都市建設のありかた、海洋汚染、漁業および海洋文化、広域気候変動による海洋変化などのテーマで議論が行われている。//

村上陽一郎 編『「専門家」とは誰か』晶文社 2022年
p190:佐伯順子、執筆
//大学教育の質保証を危惧する吉見俊哉が、「異常なほど同質的」であり、「入試」と「就活」の間に挟まれたモラトリアム的期間」である日本の大学の現状を憂い、文系も理系も含まれる「リベラルアーツ」「中世の大学教育における自由七科」の復権を唱えるのも必然である。//
p196
//人類のアイデンティティともいえる「知」の衰退に歯止めをかけ、良質な「教養」に裏打ちされた「専門」知を広く社会に発信するとともに、「教養」と「専門」の民主化を実現することは、明治初期に奨励された市民全体のための「教養」の原点回帰ともなる。これなくして日本社会、ひいては人類全体の未来もないのである。//
2026.8.20記す
