「不便益」とは、川上浩司『不便益のススメ』(岩波ジュニア新書 2019年)のタイトルにあり、わたしはこの本でこの言葉に初めてであった。
本書によると、著者の川上浩司は1964年生まれ、京都大学工学部卒業。機械工学を専門とする研究者である。
p49
//ある日師匠〔※★〕が「これからは不便益やでぇ」と言い出しました。さらには、「数字で語れるような限定的なトコだけ見てていいのか?」と問いかけてきました。言われたこちらは何がなんだかわかりません。//
※★……//私が学生時代に師事し、AIを教わり一緒に研究をした先生//p49
「不便益」は、どうやら師匠オリジナルのようだ。この本一冊を読めば、なんとなくわかる。ジュニア新書ということで、中高生にわかるような表現を使っているが、終始流れているテーマはむずかしい。”わかるようで、わからない”。もっとも、わたしは実生活で意識的に実践しているつもりなので、伝えようとしていることはわかる。しかし、全体を通して──機械工学的思想つまりエンジニアなのだ。エンジニアが、師匠曰く発想の転換を指示しているようで、 //ついこの間まで、効率化や自動化という便利を追求し、そのパフォーマンスは客観的・定量的に評価できなければならない工学研究科にいた人〔著者本人〕が、情報学研究科に研究室を移した途端に、これです。//p49
やさしい表現を努めようとしても、学者生活が染み出ている。発想転換をここまで挑戦するということは、科学思想の転換と言ってもよいと思う。つまり、機械哲学のようで、「文明」を問うているようでもある。
◇
p113
//ナビの便利さの本質は、正確で詳細な情報が確実に知らされることです。そこで、この本質を欠かせて、不便なナビを作ってみました。通った道がちょっとずつかすれていって〔左図の右〕、同じ所を3回も通ると、その周辺は真っ白で見えなくなるナビ〔左図の左〕です。//
東日本大震災から何年目だっただろう。北上川河口、太平洋に出会いリアス式海岸をクルマで北上していた。ナビにときどき目線を送りながら快調に目的地に向かっていた。と、そのとき、クルマは”海上”を走っていた。陸路は、左手側にあり、クルマは確かに”海の上”を走っていた。(そのうち、元の道路につながるだろう)と思いながら……。
”真っ白”ではなく、クルマの真下は青色で表現される”水の上”だった。旧道の陸路からはどんどん離れ、すっかり海の上を走るクルマはサーカスのようだった。
見知らぬ土地を走るとき、ナビは確かに便利だ。だが一方で、ナビの”おかげ”で道を迷った経験はわたしだけではないはずだ。高速道路で、次のインターで出るように指示される。(おかしいなあ? こんなところで下りるはずではないと思うが……) しかし、出てしまい、時間ロスの上、再び高速道路に戻る始末になったこともある。
わたしの勤務先は長距離トンネルの真上(地上側)にあった。電話がかかってきた。「ナビは目的地と言うのですが、トンネルの中です」と。
ある県境、A県からB県に向かってクルマを走らせていた。すっかり山深くなり、道は細くなるばかり。心細くなるが、ひたすらナビを信じて走らせた。こういうときの道程に限って長い。県境と思われるところでトンネル。真っ暗。照明がない。小さく丸い出口が見えていた。
◇
p104
//スポーツやゲームは制約(ルール)があるから楽しいものです。もし、制約があることを「自由がないから不便だ」と捉えることができれば、スポーツが楽しいのも不便の効用と言えます。//……//不便益を研究している仲間内では、意見が分かれています。「ゲームまで不便益に入れてしまうと、なんでも不便益になってしまうから、イヤだ」と消極的な人もいます。//
不便とは何かを命題にし、スポーツやゲームのルールを「制約=不便」ととらえるかどうかという問いだろう。論理の立て方が逆ではないかと思う。子どもが遊ぶ鬼ごっこやかくれんぼに「遊び方」が存在するものの、遊ぶ年齢構成や地域によって「遊び方」はさまざまに変わる。「遊び方」に参加年齢条件を加え地域間の差異をなくし、そういう制約を課せばいわゆるルールになる。「遊び」ではなく、ゲームと呼ばれるようになり、さらに制約を厳格にすれば記録で重みをつけられる。となれば、スポーツだ。つまり、ルールがあるからこそ「ゲーム」であり、記録で評価できるから「スポーツ」なのだ、と、わたしは思う。
◇
p65
//保育園や幼稚園の「園庭」をイメージしてください。「園庭」と聞くと平らな土地が想像されると思うのですが、十数年前の新聞記事で、「園庭」をわざとデコボコにして園児の動きを不便にさせようとする園長がいるとてう話を読みました。
大人にとって、園庭は平らなほうが、子どもを管理しやすいし安全を担保しやすいので便利です。園児にとっても、地面が真っ平らなほうが移動するのに便利で、追いかけっこもしやすいです。デコボコすると、移動しづらいですし、転んで怪我をする危険も増えるので不便なような気がします。ところが、その不便によって園児が活き活きとしてきたというのです。//
「平らな土地」でイメージされるのは、小中高の校庭。幼稚園は、保育園と比べると比較にならないほど園庭が広い。その幼稚園は確かに広く見える。しかし、幼稚園の広い園庭のどこかには起伏つまりデコボコがある。保育園は、園庭が狭いにもかかわらず、デコボコがどこかにセットされている。元来、幼児はデコボコが好きだ。不便のためにデコボコにしているのではなく、便利(好き)だからデコボコがセットされている。水たまりも、穴も、花壇の間仕切りにあるレンガや大きな石の下も好きだ。真っ平らでなんの障碍のない園庭は、幼児にとっておもしろくなく、不便極まりない。著者には申し訳ないけれど、無理矢理、便利と不便を区分けしている感じがする。
p93
//環境のほうから行為の可能性(アフォーダンス)が発信され、私たち動物は自分の身体性に合致したアフォーダンスだけに同調できて、それで可能な行為を知るという考え方があります。生態学的知覚論で採用されている考え方です。
この考え方を取り入れると、不便なものは手間を介し、また物理法則に則って、正しいアフォーダンスを与えてくれます。//……//不便なデコボコの園庭でフラッと新しい遊びを考えついたのも、それができそうなことが感じられたからです。//
わたしの引用のしかたが悪いのか、アフォーダンスを説きながら、前者と後者、なんだかしっくりしない。段差がある〔アフォーダンス〕からこそ、追いかけっこがおもしろい。
もう一言言えば、運動会は園庭の真っ平らな部分を活用する。運動会のかけっこで転ぶ幼児は少なくない。だが、平素の、デコボコもある園庭で追いかけっこで転ぶ子は多くない。
◇
p164
//不便益を研究することは、様々な大きさのスコープで関係性と多様性を回復させる試みであるという側面があります。//
まさに、同意。本書には、なるほどと思わせる実践例や提案があり、真摯に、「不便益」に取り組むさまが伝わってくる。不便益という価値観を問う課題は、実践に取り組む試みこそが「(不便益って)何?」の解であると思う。便利に誘惑されやすいなかで、「関係性と多様性を回復させる試み」が不便益であるならば、それを支持したい。
(参考)
♠不便益システム研究所
♠わたしたちとリベラルアーツ
♠消費(便利さ)と幸福の関係
♠いつから「おとな」で、遊びを考える。
2026.9.5記す


