〈いのちに出会う〉は〈ともだちに出会う〉と同じ

 この「おわりに」に到達するまでに、私は50年かかった。50年前の1970年代当初は〈いのち〉と〈ともだち〉に接点はまったくなく、「生きている証拠を見つけよう」をテーマにして自然を探索していた。自然に気づく、または、自然を感じる体験は小学1年生でも遅いと思い、1970年代後半、自ら保育の世界に飛び込んだ。にもかかわらず、〈いのち〉(=乳幼児)はすぐそばにいたのに、そういう観点はなかった。そして、この論考、「いのちに出会う保育」を記すことで、やっと〈いのち〉と〈ともだち〉が結びついた。
 あかちゃんは心を豊かにし、まずは自己に気づく。鏡に映る自分は、しかし、後に気づく自己とは異なる”自分”だ。間主観性という表現で、およそ3歳までは母と一体なのだ。生命体として不思議な世界だ。

 乳幼児は〈自身を含めて、年齢の数で遊ぶ〉と、私は捉えている。間主観性を学んだ今、0歳、1歳から自身を引き去れば、マイナスか0だ。つまり、〈ともだち〉は生じず、その数値が間主観性を表す。2歳になって、2歳-1(自身)=1人となり、1人の〈ともだち〉を得る。これは真に〈ともだち〉だろうか。まだ、間主観性が勝っているのだろう。3歳になって〈ともだち〉は2人となり、〈他者〉がその姿を現す。4歳の誕生日が過ぎると「心の理論」では、〈他者〉=〈ともだち〉がわかるようになるという。多くの実験データーが実証している。

 野外活動で、散歩で、花を摘み、チョウを追う。カエルを初めてつかみ、つかめるようになった自分に気づく。これ以上くどく説明する必要はないだろう。〈他者〉に気づかされる〈自己/自分〉がいる。〈ともだちに出会う〉は〈いのちに出会う〉と同じなのだ。

2021.1.10記す