みつめる / みられる / みつめられる ── 擬育53

 生まれたばかりのあかちゃんの目は、開いていても眠っているようだ。「あいたよ! あいた、あいた」と叫んでも、どこをみているのかわからない。そしてやがて、みつめるようになる。
 保育士養成校で、学生は実習前になると緊張する。担当教員も準備しておけと口うるさい。あなたたちが何かをしてみせる前に、部屋に10人子どもがいたら、その10人はすでにあなたをみつめている。働きかけする前から子どもは注目している。みられているのだ。と、私は言う。
 おとなとおとなは、みつめあって話さない。話せない。微妙に視線を外しながら言葉を交わす。幼児は違う。相手さんはしっかり私の目をみて話す。おとなであることを忘れることだ。私も子どもの目をみる。
 さて、何歳までみつめあって言葉を交わせられるのだろうか。就学前はみつめあえる。その先がわからない。早い話が、こんな実験は、やりにくい。「なんでみてるん?」と不思議がられそうだ。
 若いとき、小学生相手の学習塾でアルバイトをしていて、小学3年生までは目をみれば心の内が読めると悟った。それ以上になると読めなくなった。

 次も実験(観察)しにくいが、保育園の現場で働いているおとなは、おとな同士、目線を交わす時間が長いような気がする。それは、子どもとの習慣が身についているからかもしれない。それとも、気のせいか? 保育園は女性が多い職場で、女性は男性よりも非言語(ノンバーバル)コミュニケーションに長けているという研究者のレポートがある。目線は言語より大事なのかもしれない。そうであっても、女性が多い養成校の学生はまだ現場経験がないから目線で勝負しようという気がない、たぶん。だから、なかなか心の内が読めない、わからない(真剣さは推測できる)。
 ところで、注視する時間の長さは、NHKの科学情報番組だったと思うが、0.2秒だそうだ。その0.2秒を読みとる能力が人間にあるのだそうだ。目線が読みとれないというのは、みつめている時間が0.2秒にも満たないということになる。

 0歳の保育室に入るときは極めて用心がいる。部屋に踏み入れたとたん、乳児の鋭い目線が突き刺さる。目をつぶるわけにいかないから、私は泣きそうにない子をすばやく探す。運良く見つけられたらその子をチラチラみる。初めはチラチラ、やがて少しはゆっくりみる。泣かずにいてくれたら、そうして待っているあいだに他の乳児で好奇心旺盛な子が寄ってくる。または、部屋の空気が落ち着いてくる。寄ってきた子と接触できて泣かなかったら成功だ。保育室に入ったら「みられる」こと必定、「みつめられる」ことになる。保育の醍醐味だ。

2021.2.15記す