|||||「からだ」学ぶ体育教育を:平沢弥一郎 |||

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 以下は、1986年10月10日、朝日新聞「論壇」に平沢弥一郎氏が投稿したものをテキストに起こしたものである。

平沢弥一郎《「からだ」学ぶ体育教育を》

平沢■一郎の■(や)は表紙のとおり

 体育とは、ジョギングすることではないし、ママさんバレーに参加することでもない。ジョギングやバレーなどは、スポーツである。スポーツは身体的にも、心理的にも、あるいは社会的にも、重要な身体運動であり、日常生活に欠くことができないものである。だからといって、「体育=スポーツ」ということにはならない。
 体育とは、文字通り「からだを育てる」ことである。健康を保障し、運動の正しい種類と量を定め、すべての人がからだと同様に心にも、性格にも良い影響を受けるために、たどる道である。
 ところが、現状は学校体育や社会教育の現場において、「体育」といえば「スポーツ」を指している、といっても過言ではない。果たしてこれでいいのだろうか。
 体育専門の大学や学部には、スポーツができない者の入学は困難である。そこを卒業した体育教師のほとんどが、体育を教えないで、「体育実技」と称して、大学のクラブ活動でやったスポーツばかりをコーチしていることもまた事実である。だから、からだの仕組みや働きなどを教えることはしない。
 われわれが日常よく使っている「からだ」という言葉には、大変不思議な意味が隠されている。この語源は、やまと言葉で人が大地をふまえて立つ様子を表す「からだち」(躯立ち)に由来する。つまり、「人が立つ」ということである。
 正直にいって私は、からだの語源さえも知らないで、四十年近くも体育の教師をやってきた。それは体育の教師としてというよりも、むしろ一人の日本人として恥ずべきことであり、それを知った夜は慚愧(ざんき)のあまり、興奮して眠れなかった。
 「からだ」にあたる外国語には、人が立つという意味は含まれていない。とすると、その昔から、日本人の大先輩たちは、人間が大地に立つことに対して、他の民族には見られない、特異な関心と価値観を抱いていたのであろう。こんな大切なことも考えずに、平気で体育の教師をやってきたことに、大きなショックを受けたのだった。
 今日の学校教育の中では、からだの価値観の問題や、自分のからだそのものの仕組みや働きを学習するようなカリキュラムが、系統的に編成されていないように思う。
 もし、そのようなカリキュラムが組み込まれるとしたら、それは「体育」の時間を中心に行われるべきである。
 ところが、実際の「体育」の時間には、体育館やグラウンドで飛んだり、跳ねたりしているだけである。一人ひとりの子供に与えるべき運動の量はもとより、質も考慮するようなことは、全くといっていいほど行われていない。もちろん子供自身のからだに対する感じ方を把握するような努力は、一切されていない。これでは、医者が診断しないで、いきなり治療する以上に大きな問題であ。
 これらの問題を本質的に掘り下げるのは、容易なことではない。なぜならば、体育という科目が教育の底辺近くに追いやられているからである。つまり、体育は五教科よりも下に置かれている。
 一人息子であった私が、東京体育専門学校の剣道科に進もうとした時、「剣道の教師にだけはなってくれるな」と父から勘当された。また、体育の指導者自身もこうした現状を知らず知らずのうちに受け入れ、不当な劣等感を抱いている。
 十月十日の「体育の日」が近づくと、いつも思う。
 体育指導者が、「からだ」についての基礎知識をふやし、からだの哲学的考察を深め、からだに対する価値観を確立するよう、一層努力してほしい、と。

(放送大学教授・運動神経生理学 =投稿)

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 子どもの「遊び」を考えるとき、私は「ゲーム」との違いで「遊びとは何か」を考えた。そして、ゲームで争う勝ち負けを公式のルールで競わせるものが「スポーツ」だ。「スポーツ」は「遊び」とは、程遠いところにある。
 しかし、「人が立つ」が「からだ」を意味し、からだの哲学的考察を深めることで、からだの価値観を問うのであれば、それは「遊び」に近いものとなる。「体育」は「遊び」をサポートすることになり、遊びは主体性を維持することになる。
 したがって、この論考は、子どもの育ちにおいて、「遊び」が極めて重要であることを支えてくれる。ありがたいことだ。

 高校野球やオリンピックについても同様のことを言いたい。
 懸命に励むスポーツマン、アスリート個人またはその集団には別な価値観で讃えるが、野球少年、サッカー少年、新しいところでラグビー熱は、子どもから遊びを取り上げていることも事実であり、この負は大きい。青少年の「こころ」と未来をもっと真剣になって考えて欲しい。
 具体的には、安全で安心して遊べる、子どもの遊び場確保が、高校野球やオリンピックと同等あるいはそれ以上に位置づけられて欲しい。

平沢弥一郎『足の裏は語る』ちくま文庫 1996年
+ 元版は筑摩書房より1991年に刊行
p39
//言葉や文字の中には、足の裏とかかわりをもつものが、おどろくほど沢山ある。まず、われわれがふだんよく使っている「からだ」であるが、この言葉の中には、大変不思議な意味がかくされている。これは、人間が大地の上に、二本の足の裏で、しっかりと立ち構えているさまを表わす「からだち」(軀立ち)という大和言葉に由来する。
 「からだ」……。なんと響きのよい、そしてまたなんと重みのある言葉であろう。このことを知った夜は、嬉しさと驚きのあまり、朝まで興奮してよく眠れなかった。また、このことをそれまで知らなかったことは、自分が体育の教師であるということはもとより、むしろその前に一人の日本人として、大変恥ずかしいことであることに気づいた。わたしにとって、このことは大きな発見であった。//
p39
//数年前、ニホンザルを20年も研究しているある自然人類学者から「足の裏があるのは、人間だけであるということを、あなたは知っていますか」と訊ねられたことがある。立つことによって初めて発現した足の裏の歴史は、そのまま人間の歴史を物語る。//
p66
//人間は誰からも教わらないのに、なぜ一人で立ち上がることが出来るのであろうか。//
p66
//この問題について、世界的な権威者とされる、小児科学のある学者に訊ねたところ、「現在は小児の難病治療の研究が最優先で、そんなことはどうでもよいことである」と軽くあしらわれてしまった。本当にそうであろうか。そこで、「先生は、赤ちゃんはなぜ教わらなくても一人で立ち上がるのだとお考えでしょうか」と伺ったところ、「すでに立っている人を見て覚えるんです。そんなことは、常識ですよ」と、これまたあっさりと片付けられてしまった。これは真っ赤なウソではなかろうか。不幸にして生まれつき目の見えない子供も、ちゃんと一人で立つ。//
※なかなか勇敢で、少々過激な書きっぷり。

あかちゃんの寝返りをヒントに

 生まれてしばらくののち寝返りをうつ。寝返りにも力が必要だろう。やがて這い這いをする。重い頭をあげる。つかまり立ち。まっすぐに立ったほうが頭を持ち上げるよりラクだろう。そして、ひとり歩き。
 ふらつきながらも歩き、倒れてしまったら、這い這いとつかまり立ちを繰り返す。1歳半ほどになると、ふらつきながらもこけなくなる。段差のあるステップを1段なら、あがったり下がったりする。左脳ではなく、どうやら右脳の発達が実現させているのでは?と、最近の学習で辿り着いた。
 3歳を超え5歳までさらに発達を続ける。これが、百段の階段道(山道の)を登り切れる秘密ではないか? 筋肉モリモリの子はいない。あかちゃんのときに身につけた体幹を維持し続けている。そう解釈しないと納得できない。彼らは右脳の働きで歩いている。
 ところが、小学校に行くことで学習や評価が重んじられるようになり、左脳の働きが右脳を勝るようになる(と、思えてくる)。知恵が優位になり、筋肉でことを為そうとする。
 この思考に辿り着いたところで、躰道(たいどう)のK先生に気仙沼で出会った。からだの軸だけで為す武道を見学した。K先生にもあかちゃんの寝返りの話をして興味をもってもらった。
※この項、2022.8.1

2023.8.31Rewrite
2021.4.12記す

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