たんけん(探検)/ぼうけん(冒険)、何が違う、それとも同じ?

 子どもが「たんけんごっこ/ぼうけんごっこ」をするとき、どちらの言葉をつかってもかまわないだろう。「○○ごっこ」なのだから、どちらであってもそう変わりはしない。
 しかし、「冒険家」は命を賭けている。真剣なのだ。無謀とは一線を画している。が、無謀と思われてもいいと覚悟しているのが冒険家だ。

 免許や資格取得、経歴(学歴)取得に変貌してしまった「大学」だが、すぐさま役立つかどうかわからない基礎研究に勤しむのが大学の教育であり研究であったはずだ。大学院も、そこで取得する博士号も、一部だろうが経歴(学歴)取得に陥っているのではないか。
 学術研究の多くは、遡れば冒険者の恩恵を受けている。事実、今日でも冒険を理解する多くの人たちは、資金と心の支援を送っている。冒険は、冒険者ひとり、あるいは少人数のグループだが、冒険を成功させる(失敗しても)陰では、多くの人たちに支えられている。初めて行うことを非難する人はいるものだ。この場合の「非難」は価値観や世界観が異なることから生じるのであって、非難がよくないということはない。それを超えて、冒険の意味する目的を理解できる人たちでこれが成立する。
 「冒険」と「探検」は、どちらも、先行する人たちがいないか少ない分野に挑戦することだ。探検も命がけのこともあるだろうが、比較して考えるならば、冒険は前人未踏だが、その冒険がもたらした成果を受け、学術的な仮説を複数想定できるというのが「探検」といえるだろう。

 唐突だが、あかちゃんが母から生まれ出てくるさま、それからの数日あるいは数か月は冒険者ではないか。多くの人に見守られ、手を差し延べられて、あかちゃんは育つ。そのあかちゃんが寝返って這い這いし、何かをつかみ、口にもっていくそのさまは探検者と思える。
 野外活動が初めての頃、3歳の頃は冒険者で、5歳になってしまうと探検者だなあと思う。かわいいけれど勇ましい冒険者なのだ。
 少し批判がましいことを言わせてもらうと、小学校に進み教育を受けると、冒険はもとより探検でさえも控えるように指導する先生を見受ける。「教育」は、冒険に始まる探検をめざす心を育てて欲しいと思う。
 冒険する心を忘れない小学生高学年を目標として欲しい。あかちゃんのスタートは誰にも同じであるように、どの子にもわけへだてなく、探検する〈おとな〉を待望したい。

2021.5.15記す

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