かこさとし流「子どもの遊び」説

 かこさとし『日本の子どもの遊び(下)』(青木書店 1980年)の冒頭で、学者が唱える「子どもの遊び」説を整理している。登場人物を、生年を基準にして排列すると以下のとおり。

  • 18世紀
    • シラー 1759-1805
  • 19世紀
    • フレーベル 1782-1852
    • スペンサー 1820-1903
    • ラツァルス 1824-1903
    • ラゲル 1834-1900
    • ホール 1844-1924
    • フロイト 1856-1939
    • デューイ 1859-1952
    • グロース 1861-1946
  • 20世紀
    • シルベラー 1882-1923
      • ゴブロット 不明
    • マクドガル 1891-1938
    • ピアジェ 1896-1980
    • アプルトン 1919-
    • かこさとし 1926-2018
    • ミッチェル 1946-2000
      • メーソン 不明

1

 フレーベルは「遊びとは自分の生活と他の人の生活、内面的生活およびまわりの生活の鏡」と考えました。そして遊びの本質を「表出の自由」に求め、だから映し出されたものは限りなく新鮮な刺激になると述べました。さすが幼稚園の創始者だけあって、慧眼だと思いますが、生活の反映だけとは限らず、もっといろいろのことが遊びには含まれているはずでしょう。

2

 シラーとスペンサーは「遊びは、子ども達が成長の過剰な精力のはけ口として、それを消費しているのだ」という余剰精力説を提出しました。たしかにエネルギーにあふれた子ははしりまわり、少々クタビレた子は遊ばない──ということもありますが、子どもをよく観察している方なら、あのガキといわれる子が、遊びつかれて、夕食をたべながらねてしまうというほど、余剰も何もなくなるほど、遊びに熱中することを知っておられることでしょうし、余剰エネルギーを費やすために遊ぶのでなく、遊ぶことによって次のエネルギーが増蓄されるということも知っておられることでしょう。

 私(山田)は、持論として、「子どもは過不足なく遊ぶ」と言っている。熱中していると、つい遊び時間を忘れ、遊び過ぎてしまうものだ。つまり、「過」の状態。こうなると疲れがもとで、勉強に集中できなくなったり、幼い子の場合、翌日に発熱があったりする。一方、なんらかの制限が加わって遊び足りないとき「不足」を感じる。過でもなく不足でもなく、という器用な遊び方を子どもに望むのは無理というものだ。子どもの遊びを見守る必要のあるとき、おとなの心得として、「過不足なく」というのが腕の見せどころになるだろう。

3

 グロースなどは、子どもの遊びというものは、大人の行動や生活のさまざまな形態様式を学習し、将来の生活に適応するように、用意練習する「生活準備」であると説きました。たしかにママゴトや電車ゴッコやお医者さんごっこは、そうした側面をもっていますが、普通の大人ならしないトンボとりや虫とり、ジャンケンとびに熱中するのはなぜでしょう。けっして子どもの遊びは大人への生活準備一辺倒ではないということも、すぐにわかるところです。

4

 ホールは、子ども達の遊びというものは、人類祖先が経験した原始時代の活動を、再現反復しているものだと説きました。たしかに子ども達の幼稚な行動や手先の十分使いきれていない状況は、そうしたことをうかがわせるものではありますが、すでに大脳生理学によって、子ども達の脳細胞は、大人と基本的に異ならず、原始人の脳とは異なっていることがわかった今日では、この説も不十分ということになります。

5

 ランゲは、遊びは子どもが生活を拡充充足させるための練習であると考えました。これは前述したグロースの「生活準備説」をさらに拡大補填したもので、「補充説」とよばれていますが、基本的にいって、前記と同様の欠点を有しているといえましょう。

6

 こうした諸説とは逆に、ラツァルスは子どもの遊びは、訓練とか学習とか、生活準備などによって、心身が緊張をよぎなくさせられている反動としての、精神的解放と休養の場であると考えました。したがって遊びにたいし、一切の束縛や拘束をすべきではないとしたのですが、たしかにときには娯楽や心身の休養といったときもありますが、その多くはひどく身体を動かし、たいへんなエネルギーの消費を行なっているものです。真夏の盛りに汗びっしょりになりながら「かくれんぼ」に興じたり、手足を紫色にかじかませても、雪遊びに熱中するのは、たいへんな心身の負担や緊張を伴っているといえるでしょう。解放されているが、新たな緊張やスリル、冒険や負担をあえて行なっているのですから、単に「心的休養」で片づけられるものではありません。

7

 アプルトンは、遊びを子どもが身心の発達上、種々な要求欲求を満たすための、生物的活動と考えました。しかし動物による実験と、人間の子の観察との差は、明らかに社会性、特に子ども同士のみならず、大人の生活の影響を無視できないという点で、単純な生物的発達の考え方は批判されるにいたっています。

8

 ミッチェルやメーソンは、日常の生活以外に、子どもは自分自身の満足や確認を求めるため、種々な成功の達成を試みたり、支配や占有の要求を満たす活動を行なうのであって、それが遊びだと考えました。こうした考えにたつとき、子ども達にそうした自己表出、自己表現の場を与えることが必要で、それを十分与えないとき、欲求不満となり、歪んだ成長となるというフロイト的発想にもとづいていることがおわかりでしょう。人間の心理の基底に、性意識や社会的禁圧があることを指摘したことは、フロイトの大きな功績ではありますが、すべてをそれによって説明しつくそうというのは無理があり、特に近代社会の経済性や政治的側面、進学問題などには、それ相応の別な法則性があり、それに支配されていることを考慮すべきでしょう。

9

 こうしたフロイト流の考え方の一つとして、ゴブロットやシルベラーなどの、抑圧された情緒や欲求を解消させる浄化的な活動、あるいはそうした満足さを他の方法によっていやす代償的行動が子どもの遊びであるとの説があります。その結果、問題児などには遊戯療法といった方法が考案されるにいたりましたが、例えば口唇吸啜接触が満足させられなかった子の、指しゃぶりは、この論で解釈できるとしても、その子が指をしゃぶりしゃぶり、かくれんぼの群のあとについて走りまわっている解釈は、無理というものでしょう。問題となっている歪の分析法の一つではあっても、子どもの遊びのすべてをまかなうに足る万能薬ではないことをはっきり考えなくてはなりますまい。

10

 マクドガルの成熟してゆく過程に出現する本能の一つであるとする考え方もあります。たしかに子ども即遊ぶということで、従来本能と思われがちでしたが、最近の日本の子ども達のように、遊べない子、遊ばない子という群が出現するにいたって、遊びが本能なら、それを失うはずはないのですから、この説もいただけなくなってしまいます。

11

 実証派のデューイは、遊びは子どもの生活そのものであって、成長に従ってそれは大人においては仕事と遊びに分化するが、それが未分化の状態にあるのだと説明しました。前記したように、大人の生活における仕事(労働)と遊びを対立対峙してとらえる考え方は、仕事は苦しくイヤなもの、遊びはたのしく好ましいものというとらえ方であり、そこから仕事が楽しくて仕方ない、労働に喜びを感ずるという人間は、異常人か仕事アニマルとしか考えられないという「資本主義経済下」の限定された考え方となってしまいます。同じように、子どもの遊びを学習と対立させる考え方に遡行してゆき、子どもの生活は当然のことながら、遊びという自由即自律の場と、他の先達者や先験者から教示伝達される習得学習の場があることを無視したものといえるでしょう。

 遊んでばかりしていないで、勉強をしなさい! の小言は、ここに含まれるということか?

12

 ピアジェは子どもの思考構造の発達に焦点をあて、その機能的/象徴的/規則的段階を経て、子どもは自分の成長を遊びの発達と照応していると説明しました。問題は遊びの発達とか変化は、臨床医学でいえば患者の排泄物の変化か、血圧の変化にすぎません。最も中心なことは、子どもというより人間であり、それが出生から自立するあいだ、自らの意志と行動によって示す様式のなかに、反映し投影している変化を、発達とか成長とよんでいるということを認識しなくてはならないところでしょう。

2021.6.21記す

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