子ども期の再生(ルネサンス)実現への道のり
第2部 -11-
「豊かさ」への問いかけ

 味覚は苦味を経験することで深みを増すらしい。苦いもの渋いものを子どもは吐き出すが、おとなは味わうことができる。食が豊かであることは、心にゆとりをもたらす。山菜など野趣に富む料理は、苦味との出会いだと思う。
 「豊かさ」が「心」と結びつくとき、私は「豊かさ」を否定しない。しかし、「時間」を「豊かさ」で満たそうとするとき、「豊かさとは何か?」という命題が現れる。「時間」で豊かさを問うとき、それは、「待つ」ことに対する価値観と言えないだろうか。「待つ」イコール「苦味」と言えるだろうか。子どもは苦味が受け入れられないように、待つことが苦手だ。
 苦味はいろいろなことに喩えられる。喧嘩、不得意、不便、等々。『たのしい不便』(福岡賢正/2000年)という本がある。「豊かさ」を正面から取り上げ、筆者自身が”不便”を実践した。
 子どもは、友達と遊びたいとき、苦手や好みでなくても、自らを律して「時間」を共有しようとする。やや難しい用語をあてはめるとレジリエンスを修得する。レジリエンスはストレスの対語で「立ち直る」の意味がある。子どもはいずれおとなになる。人間関係に必要なレジリエンスを子どもは仲間と遊ぶことで身につける。

 「豊かさ」とは何か?
 豊かさは、しあわせを実現させるだろうか?

 社会的な貧困問題は大きな課題だけれど、お金はしあわせを約束するだろうか。おそらく多くの人は否定するだろう。一度きりの人生を愛する人とともに過ごしたいと最近誰かさんが言った。
 新型コロナウイルス感染症は地球を覆い尽くした。人とモノの流れが地球を短時間で包囲してしまった。温暖化も原因しているだろう。「豊かさ」を求めたことが感染症の蔓延になってしまったのだろうか。豊かさ=感染症には論理的飛躍があるかもしれない。病気を防ぐことも「豊かさ」条件の一つだろう。「豊かさ」を求めることは私たち人間の性(さが)とすれば、「豊かさ」を求める思考に欠けていたものがある。私たちは「豊かさ」の一面しか見ていない。子どもの遊び、子どもが育つ環境、家庭のありかたなど、それらが経済優先で進む社会に比して取り残されていると私は思う。

(参考)「豊かさ」を問う

2021.11.1記す