||||| 大熊孝『技術にも自治がある』読書メモ |||

Home > ……

大熊孝『技術にも自治がある ──治水技術の伝統と近代』
+ 人間選書253(農文協)2004年

大熊孝(おおくま・たかし)Wikipedia「大熊孝」
+ 1942年 生まれ
+ 新潟大学工学部教授(1985年~現職:2004年)・河川工学者

p29 縄文時代、1万年もの長きにわたって畑作文化が確立しなかったのは、なぜか?
//その理由は、畑作の生産性が採取・狩猟の生産性に劣っていたことにあると考えられる。
 たとえば、現代において、水田では播いた種籾に対して収穫量は約200倍の生産性があるが、ソバでは約30倍程度の生産性しかない。およそ3000年前にこの生産性の違いがどの程度であったかは明らかでないが、水田と畑作の差は似たようなものでなかったかと想像されるのである。おそらく縄文時代に畑作が発達しなかったのは、投下する労力と収穫の点において自然から採取するほうが畑作を上まわっていたからに違いない。しかし、水田農業はさすがに生産性が高く、弥生時代に徐々に水田に移行したのではないかと考えられる。
 縄文時代の生産性は日本の自然とそれを扱う”わざ”との関係において一つの頂点に達しており、そのかぎりで畑作を凌駕していた。そしてそのなかで生み出された余剰は豊かな縄文文化の花を開かせた。しかしこの余剰は自然に左右されるものであり、恒常的な拡大再生産を支えるほどでなかった。その結果として、若干の階層分化はあったにせよ、比較的平等な社会がつくられていたと思われるのである。//
p30
//弥生時代に入ると水田稲作によって拡大再生産が可能となる余剰が生み出され、階級性〔ママ〕が発生し、権力者が登場してきたのであった。//
p31 稲作が始まっても、縄文時代の採取・狩猟は並行して行われ続けた──としたうえで──
//稲作文化が強調されるあまり、縄文時代以来の自然と交流する”わざ”の視点が欠落しがちであったことは反省すべきである。//

p43 川の定義
//川は、「地球における物質循環の重要な担い手であるとともに、人にとって身近な自然で、恵みと災害という矛盾のなかにゆっくりと時間をかけて、地域文化を育んできた存在である」と定義すべきであろう。//
p43
//この川の定義が念頭にあれば、いまのように川がダムだらけになることはなかったに違いない。川を地球の血管にたとえれば、ダムは川を遮断し、土砂や落ち葉を溜めこみ、魚の往来を阻害する血栓であり、川にとって”敵対物”でしかないからである。人間の利益のためにダムをつくるにしても最後の手段と位置付けるべきものであった。しかるに、二十世紀は”ダム文明の世紀”とばかりに日本ばかりか世界中で安易にダムがつくられ、川の物質循環を破壊してきたのである。//

p43
//川にダムをつくれば、いずれ土砂で満杯になり、下流では河床の低下や海岸浸食を引き起こす必然性があった。われわれはそうしたことを配慮することなく、ダムをつくり続けてきたのである。//

p47
//私〔大熊孝〕は若い頃、高度経済成長の最中に、それを担う社会基盤施設をつくるエリートとして東京大学工学部土木工学科で学んだ。その頃はダムがもっとも盛んにつくられ始めた時代でもある。私たちは洪水は害であり水資源的には無駄に流れているのだから、これをダムに溜めてしまえば一石二鳥であると、すなわちダムづくりは「善である」と教えられた。私自身の修士論文のテーマも利根川上流のダム群を統合管理しようというものであり、ダムの効用を疑うことはなかったのである。//

p48
//川の流れは、元来、洪水であれ渇水であれ、何千万年、何百万年もの継続のなかで、それ自体の環境をつくってきたのであり、無駄な水は一滴もなかったと考えるべきである。//

p49
//人間は、本来、川の環境維持のために不可欠な流水を使わせてもらっているのであり、その自覚のうえに治水・利水を行うべきであった。しかるに、この50年あまりで日本の川という川にはダムや砂防ダムが無数につくられ、その自然環境は完全に変えられてしまった。いまやダムのない川はレッドデータブックに載せ、第一に保護すべき対象になっていると考える。//

p52 風土論
//風土の”風”が「風来坊」や「漂流者」、「他者」を意味し、また”土”が「土着」や「定住者」、「私」に通じるからであった。そしてその両極端の異なるものがぶつかり合い、時間をかけて織りなされ醸成されたものが、”風土”なんだ//

p53
//応用学問も普遍的学問も分野はどちらも自然科学に属する。しかし、自然のなかから人間が好きなように切り取った現象を対象として研究し、自然界に存在しなかったものを次々と生み出して、大量生産・大量消費・大量廃棄を促してきた普遍的学問は、実は自然科学というより、前章で触れたように「人工科学」と称したほうが適当なのではないかと考えている。そしてこの「人工科学」が生み出したもののなかには、原子爆弾からダイオキシン、有機水銀など人間を不幸のどん底に陥れたものも少なくない。科学者、技術者が、人間として特別に倫理観にもとるとは思わないが、歴史を振り返ってみると普遍的学問は人の倫理観を弱めこそすれ、強めることはなかったように思われる。
 これに対し、関係性を探究する学問は、生の、ありのままの自然を対象としなければならず、自然を恣意的に切り取ってくることはできない。自然科学というなら、これこそまさにその名に値する学問であろうし、時と場所を問題とし、その関係性や持続性を尊重するかぎり十分に倫理的にならざるを得ない。普遍的な「真理探究型」の学問「関係性探求型」の学問との相違は、この自然をどう扱うか、またどの程度倫理的であり得るかにかかっていると思う。//

p54
//普遍的学問である水理学の影響を受け、それを優先させた結果、洪水をとにかく効率的に流せるように川の断面を直線的な矩形や台形の断面にしてコンクリートで護岸し、どこでも同じような川のかたちに変えてしまった。計算に合うように自然を変えてしまったのである。確かにそれで洪水は早く海に突き出せるようにはなった。しかし、自然の物質循環や生態系は狂わされ、生物が棲みにくくなっただけでなく、人間にとっても面白みのない川をあちこちに現出させる結果を生んでいる。//

p55
//もともと川の問題は地域性が強く、画一的な技術でなく、川の自然特性や地域の社会特性に見合う技術を適用する必要があった。換言すれば、「技術の自治」が必要だった。//
※「技術の自治」初出。
p55
//1990年頃から「近自然河川工法」とか「多自然型川づくり」といった思想が導入され、近年ではそれぞれの川の個性が尊重されるようになってきている。洪水対策でも、何百年かに一度発生するような大規模な洪水は防ぎきれないことを前提に、水害をできるだけ小さくする土地利用や住宅の建て方で折り合いをつけることが求められており、「技術の自治」は始まりつつある。//

p58
//経験の少ない若干25歳のダイアーが、東洋の果てに来て、近代的工学教育を体系的に樹立し得た事実は、「真理探究型」の普遍的学問がまさに場所や時を超越して適用できることを意味している。しかし、ダイアーの偉さは、場所や時に深く根ざした文化、芸術、技能に対する教育、換言すれば「関係性探求型」学問の教育も怠らなかったということである。//
※ヘンリー・ダイヤー(1848~1918)//イギリスから1873(明治6)年6月に工部省工学寮都検(後に教頭と改称)として来日//p55
p56
//まさに「日本近代工業技術の父」といえる人物である。//「ボーイズ・ビー・アンビシャス」の一言で有名なクラークと比して //彼の名前はあまり知られていない//と不満だ。

p76
//まず、第一類の「思想的段階」の近世と近代であるが、技術の手段的段階の違いを反映して、近世は自然力に対抗できないので、それを受け渡し共存しよう」という考え方であるのに対し、近代は強力な技術手段で、自然を克服しよう」という考え方が強く、大きな違いをみせている。//

※p82辺りで中断

p281~290
「矛盾」と共存する(内山節)

p291 内山節
//思想を語らない技術が横行し、技術の奥には思想があることに気づかない技術者がいくらでもいる。河川の技術と河川の思想は不可分の関係にあると語っただけで、大熊が河川工学の「異端」のようにみられてしまう現実こそが、ただされなければいけない//
p291
//大熊は河川工学の世界では「異端」であっても、河川の世界では「異端」であったわけではない。//

p292 内山節+大熊孝+鬼頭秀一、3人に共通するもの
//フィールドのなかで// //思想とはその場所〔フィールド〕のなかで創造される// ── //思想はローカルなものである//
p292 //学問に対する「作法」//
//研究者とは単なる観察者ではなく、参加し、行動するからこそみえてくるものを大事にする// //観察者であることに満足してしまったら、研究自体が不十分なものになる//
p292 //思想的方法//
//関係性をとおしてものごとを捉える// //私〔内山節〕は関係=存在という視点をもっている// //関係し合う世界をみなければ、それ自体を捉えることもできない//

2022.12.22記す

© 2024 ||||| YAMADA,Toshiyuki |||, All rights reserved.