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言葉に、こだわりながらも :「矛盾」と共存する(内山節)
自分では納得していても、あるいは、到達したような感慨があっても、「果たして、確かなのだろうか?」と自問自答すること、しばしばだ。反論や疑問を受けると、課題がみえてくる。それで、枠組みを見直す「確からしさのループ」を考えてみた。
上図の説明
- 情報を、◎受け入れるか ×拒否するか。◎関係性をもとうとするか ×無視するか。
- 「拒否」すると、それっきりで関係性がなくなる。
- 受容で進む方向に「個人」がある。つまり、人それぞれ各人の判断による。
- 「受容」と判断しても、可否は別。反対意見や対論を受け入れることになる。
- 同意して受け入れたとしても、個人の内心において、積極的に受け入れたわけでない場合もある。これを「非規範」としている。
- 同意して受容した場合、実践に向けては「ルールや計画」あるいは、「法や条例」が必要となる。
- 「非規範」において、矛盾や疑問が生じる。これをどう解決するか。ここにボランティア活動をあてはめることが可能だ。子どもや学生の場合、社会参加・体験に相当する。
- 検証をAまたはBで行う。
- 検証Bは実践に反映される可能性もある。
- 検証A・Bは、ものさしに戻る。これで「確からしさのループ」となる。
拒否するとループができない。まずは、受け入れることを考えよう。
「ものさし」は個人を想定しているが、団体・組織・グループに準用することもあるだろう。
順位10番を実行し
ループを 完成させることが肝要となる
矛盾を感じることがあっても検証Bが十分でない場合、変化を望まない傾向になる。あるいは、同調圧力によってルール強化に向かう。「矛盾」と共存する(内山節)
保育士養成校の講義で話していること──
保育は福祉の仕事であること。福祉を政策等で実行するとき(法や条例等規則によるため)線引き・枠組みを避けて通れない。業務は「枠」の中で執行することになる。しかし、それがイコール「福祉」ではない。
福祉に携わるとき、「個人」としては「規範枠・非規範」の両方に立ち位置をおくようにと要望している。つまり、悩みながら・苦悶しながら仕事をすることになる。それが「福祉」を選ぶということなのだ。
遊び・ゲームの場合
「確からしさのループ」と比較し、「遊び」の特性を知ろう。
参考
いつから「おとな」で、遊びを考える。
…… 遊びとゲームの比較あり
考察
- 「遊び」が足りないと、「規範枠」の領域が相対的に大きくなり、ものさしに戻るループ2本のうち片方が弱くなる。
OECD教育研究革新センター『脳からみた学習』
小泉秀明/監修 明石書店 2010年
p170
//科学の進歩は、試行錯誤の結果によるものである。科学の理論は、現象が確認され、修正され、あるいは否定される観察結果に基づいて構築される。そして、以前の理論を補う別の理論、あるいは以前の理論に反する別の理論が生み出されることで科学は進歩するのである。//
「矛盾」と共存する(内山節)
大熊孝『技術にも自治がある』農文協 2004年、巻末「解説」を内山節が執筆。解説タイトル《近代的「知」の作法の転換をめざして》より。
♠p283
//ところが大熊の発想は違っていた。大熊が提案していたのは矛盾との共存であり、それができなければ川は川でなくなるし、人は川は失う。つまり、川とともにつくりだす豊かな社会を失うということであった。矛盾と共存する構想力を、人と地域、地域社会に求めたのである。//
(参考)内山節 2007年『なぜ、キツネに だまされなくなったのか』
p281
//戦後の河川史は、日本の川が壊されていく歴史である。森と海を結び、流域の人々の暮らしのなかを流れていたかつての川は、河川改修が進むにしたがって、無惨な姿に変わっていった。//
p281
//この河川改修に理論的根拠を与えてきたのが河川工学だと私は思っていた。それは水の管理と利用だけをめざし、川自体を破壊しても何とも感じないほどに、感性が麻痺した学問のようにも思えた。
ところがその河川工学のただ中にいる人が、川とは何かを、川と人の共存しうる技術とは何かを問うたのが、『洪水と治水の河川史』〔大熊孝、1988年、平凡社〕だったのである。川は私たちの社会のどこを流れているのか。川がつくりだす自然の世界のなかを。そして山村、農村、都市、漁村を結ぶ人の暮らしのなかを。大熊がみていたのはこの川であり、この川を守る河川技術のあり方であった。//
p282
//大熊が河川をとおして語っていたこと、それは哲学の分野にとっても、重要な問題提起を含んでいた。その内容は本書においてさらに深められているが、大熊の河川工学は、哲学書、思想書として読んでも学ぶことが多い。//
p282
//一般に近代思想と呼ばれる近代-現代をつくりだした思想には、共通する精神が流れている。それは未来を矛盾のない社会として描く精神的態度であり、矛盾が残っているのは、人間がまだその解決のために必要な知性を獲得していないか、あるいは解決のための手段を確立していないかであると、近代思想の担手たちは考えていた。科学の発達は、さまざまな矛盾を解決していくだろう。経済と技術の発展は、人間の世界から苦悩を取り除いていくだろう。人間の知性は進化をとげて、ついには平和で豊かで矛盾のない世界をつくっていくに違いない。それに向かって歩んでいくのが進歩であり、人間と歴史の喜びであると考えたのである。
河川工学もこの方向に沿って進んだといってもよい。科学の進歩、技術の進歩、そして大きな工事を可能にする経済の拡大によって、人々は洪水に悩まされることから永久に解放され、必要なだけ水が利用できる社会を手にするときがくると、人々は未来の理想を描いた。//(冒頭↑♠に続く)
p283
//河川の管理権はそのほとんどが国家の手に集められ、国家による画一的な河川改修が進められるようになる。それは、地域、流域の人々が管理に関与できない川をつくりだし、そのことがかつての地域の人々がもっていた川を治める技術や知恵を喪失させていった。日本の河川荒廃はその結果生じている。//
p283
//大熊はいくつかの重要な思想的提案を行なっている。その一つは、「平等」についての思想で、平等とは均一的、あるいは画一的なことと同じではない。むしろ自然は不平等につくられていることを積極的に認め、その不平等のなかに個性があることをみている。そして、その不平等によって発生する被害や問題点を人々が共有し、それが大きな被害や問題点にならないように工夫する。つまり川を画一化し、同じような川に変えることによって平等を実現するのではなく、川の個性を守り、その結果として特定の地域に多少の洪水被害が発生したとしても、その被害をやり過ごすことのできる余裕と連帯感のある社会をつくることによって、より深い平等な社会を創造する可能性の先に、大熊は高次な平等をみつけだす。
いわば、大熊は平等という概念を、画一化の概念から連帯の概念へと転換させようと試みたのである。//
p284
//技術と経済力だけに依存した河川改修は、明るい未来どころか、川が破壊されていくという暗い現実しかもたらさなかったのである。
とすると何が欠けていたのか。それは技術への素人の関与であり、地域、流域の人々の参加である。
この指摘はこれまでの技術論の壁をつき崩した。//
p284 その技術論とは?
① //資本主義的な利益と結びついた技術が、公害、労働災害、消費者の健康被害といった問題点を生みだしてきたこと//
② //人間が制御できないほどに巨大化してしまった技術の問題点//
③ //総合的な判断力を失った技術者の問題//
④ //軍事技術にみられる大量殺人技術の問題//
⑤ //現状だけを考え未来の責任を取ろうとしない技術の問題//
p285
//これらの指摘にもそれぞれ意味はある。だが大熊はこの次元にとどまってはいなかった。近代技術の欠陥は、技術自体の欠陥として論じるものではなく、技術の成立と選択、実行のプロセスに普通の人々が関与できないことから生じる欠陥であることを、大熊は河川をとおして論じたのである。//
p285
//国家は地域の人々に検証される仕組みをもたないかぎり、健全な姿を保ち得ないこと、そして、専門家は素人の検証を受ける仕組みをもたなければ、専門家としては健全な仕事をなし得ないこと、である。いうまでもなくこの見解は、近代国民国家のあり方に対する、また、プロフェッショナルな仕事や専門家を育成する学問といったものに対する近代社会の合意への、根源的な挑戦を秘めている。
さて、このような思想を土台におきながら、大熊は何をみているのであろうか。それは前記したように、矛盾をなくすのではなく、矛盾と共存しうる人間の構想力、未来のあり方をみつけだすという新しい社会像の発見である。//
p287
//近代主義者なら、この新しい矛盾に対しても、それを解決しうる、より高度な科学や技術、それを支える経済力に期待を寄せるかもしれない。だが大熊の発想は違う。それは矛盾を受容しないかぎり、問題を解決する緒は見出せないとする態度である。矛盾のない社会こそが理想だと考える近代の発想からの訣別をとおして、川のあり方や新しい社会のあり方を大熊は提案した。もちろん、だといっても、矛盾が致命的な打撃を与えるのではうまくない。矛盾と付き合うことが可能な仕組みが必要である。// 具体例をあげた上で──
p288
//そういうさまざまな技術、工夫を重ねることによって、洪水が起きても致命的な被害が起きないようにし、川の矛盾とつきあえる態勢を整えることによって、矛盾を受容しながら、さまざまな機能をもつ川を川として守ってきたのである。//
関係性
p289
//現在では、いろいろなことに関わらないでもすむ社会が生まれている。自然に関わることも、地域と関わることも、他の人々と関わることも、しなければしないでも生きていける。つまり、関係性をもたなくても生きていける社会がつくられたのである。しかしそれは逆からみれば、その関係性をとおしてしか手に入らない、あるいはつかめないものが、永遠に自分のものにならない、ということでもある。//
p289
//それは次のように考えればよい。ほとんどの人々は、自然や地域、他の人々といったさまざまな社会とは関係をもたなかったとしても、自分が働く企業や経済社会とは関係をつくらざるを得ない。この関係を断ち切ったら生きていく術を失う。その結果、この関係のなかで伝えられ、教えられることは確実に自分のなかに入ってくる。企業や経済社会の考え方、価値基準、付き合い方、等々がである。ところが、このような関係しかもたないとき、この関係から与えられたものが絶対化され、それが企業や経済社会の基準しかわからない人間をつくりだしてしまった。
関係をもつとはこういうことである。だから、自然と関わりをもつことによって、私たちは自然から教わり、自然とともに暮らす技や判断力を身につけることができる。地域と関わりをもつことによって、その地域に蓄積されてきた技や判断力、知恵を手に入れることができる。
関係性を確立するということを、私たちはわずらわしいことと考えるのか、新しい知識や技、判断力や知恵を手に入れていくプロセスと考えるのか。//
p290
//矛盾を解消するのではなく、矛盾と共存しうる力を人間が獲得すること、そのことのなかに未来をみるのが大熊の視点である。//
2022.12.19Rewrite
2019.6.23記す