いのち の かたち for child

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神戸市の農村で 2018年

 小川も大河もそのもとを遡れば「泉」にゆきつく。泉の、さらにその源を求めても、その”もと”を見届けることはできない。始原は湿り気(しめりけ)であって「流れ」ではない。天から降ってきた雨や空気中の水分だろうが、それが泉の”もと”である。
 無数の精子と1個の卵子が出会うさまを泉に似せてみた。受精卵を泉に相当させる。受精卵はやがて流れとなって目に見える。「泉=いのち」と捉えたとき、流れになった「いのち」は「かたち」となって見えてくる。
 3歳児は、野山・田園を歩くと石ころや棒切れを手にする。4歳児になると加えて、どんぐりをひろったりや花をつむ。5歳児はさらに加えて、ザリガニやバッタなど動くものに挑戦する。石ころ・棒切れ・どんぐり・花・ザリガニ・バッタは、もしかして「いのち」であって、いのちをつかもうとしているのではないか。
 年長児があかちゃんを見て「かわいい」と言い、抱っこしたりなでたりさわろうとする。犬や猫をなでる。その行為は「いのちのかたち」にふれようとしているのではないか。
 あかちゃんが、食べものをつかんで口に入れる。口に入れるものは食べられるものとは限らないが、つかむさまは「いのち」をつかんでいることになるのだろうか。食べられるものとそうでないものとを、やがて見極める。子どもの手のなかに「いのち」があると考えてよいだろうか。

 いのちと「まるい」は関係があるのだろうか。卵はまるい。あかちゃんはやわらかくまるみがあってかわいい。人間のあかちゃんやほかの動物のあかちゃんもふわふわまるい。おたまじゃくしもまるい。ドングリもまるい。ハスの実はひしがただけど、まるい感じはある(鋭く針状になっていて痛いけれど……)。棒切れ、細長いけれど、子どもが好んで手にする持ち手はまるい。おはじきもお手玉も、そしてコマまわしのコマもまるいなあ。砂浜でひろう貝がらもまるい。砂は、さらさらで気持ちいい。

いのちは、
子どもの手に にぎられ、
つかまれている。

子どもの手をひくとき、
愛らしい気持ちになるのは、
いのちをつかむ……から、か?

こころは、どこにある?

 すべり台の好きな2歳の男児が、そのすべり台の上から下を見下ろして「ドキドキする」と言った。その表現に幼児のこころを発見した思いだったが、ドキドキ=心臓=こころの等式が成り立つ。しかし、こころは心臓にあるのでなく、脳機能の作用だ。
 芥川龍之介の作品『手巾(ハンケチ)』に「婦人は、顔でこそ笑つてゐたが、実はさつきから、全身で泣いてゐたのである。」とあり、それは手に握りしめられていた〈ハンケチ〉が感情を表していた、という話だ。(青空文庫より
 こころと心臓は等号で結べないとしても、こころはどこにあるのか?不思議だ。

 そして思うに、子どもは、いのちを自身の手でつかむ、というふうに考えれば、犬や猫を「かわいい」と撫でるときも、人間のあかちゃんに向き合って手を添え「かわいい」と思わず言ってしまっているその様子からも、ここでは、いのちとこころは等号で結ばれているように思えてならない。
 さらに調子に乗って言えば、子どもに限った場合、手でさわり、ふれあい、にぎったりすることで、こころを受け取り、いのちを感じ、いのちを大切にしようと思うこころが育ち、自尊心の基礎を築き高めることになると思う。

背中の君 棒切れ片手に 十三夜

 この写真は、「背中の君」の母が撮った。夕暮れまで遊んで、お月様が出てきた。背中の君もお月さんを見ている。月と我が子がアングルにおさまった。
 「棒切れ片手に」と情景を描いたが、棒切れと「いのち」、このときは結びつけていなかった。背中の君は、日が暮れるまで十分に遊びきった。つかんでいたい棒切れとどこかで出会い、拾っていた。好きなもの、欲しいものを手にしていると落ち着く。長さもちょうど良かったのかもしれない。背中の君の目線は、お月さんに向けられている。お月さんも、背中の君を見ている。そして、棒切れと背中の君は、ひとつになっていて、そのラインもまた美しい。

2022.8.9Rewrite
2019.11.12記す

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