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『昭和の子どもたち 4 遊びと仲間』(学習研究社 1986年)p66 道路を占領して、ままごとをする子どもたち。今では車がおおく、道路で遊ぶことができなくなりました。(東京都)| 撮影・渡部雄吉

//今や子どもが自由に遊べるような空間は、1953年と比較して、まさにその99%を失ってしまったのである。//
……//「子どもにやさしい道」が提供されれば、遊びが本来有している身体的、精神的、社会的発達の機会を満喫できるであろう。//p30,31

仙田満ほか『子どもが道草できるまちづくり』学芸出版社 2009年
担当執筆者:今井博之 ※遊べる空間は100分の1に

「通学路」で考える

『昭和の子どもたち 4 遊びと仲間』(学習研究社 1986年)
p84
//むかしは道をあるくと、じゃまになるほど子どもたちが遊んでいました。まりつきをしている子、おにごっこをして木かげにかくれている子、日なたで子もりをして本を読んでいる子、ベーゴマをしている子……。なわのなかに入って電車ごっこをしている子どもたちが、「チンチン」といいながらはしってきて、ぶつかるようなばあいもありました。子どもは外で遊ぶのがふつうであり、おとなたちも子どもの遊びのじゃまにならないように気をつかったものでした。
 今は、通学の子に出会うくらいで、道路で遊ぶ子は見かけなくなりました。これは、子どもたちがすみにくくなった証拠かもしれません。//

p85 ボール遊びをする子、子もりをする子、本を読む子などがまちにあふれ、活気があります。(東京都)| 撮影・清宮由美子
p84 昭和35年ごろに東京の下町(江東区)でうつしたものです。気ままに路地でたむろする子どもたち。(東京都)| 撮影・清宮由美子

p66
//路地や広っぱが遊び場だったころは、子どもたちのにぎやかな話し声があちこちからきこえたものでした。//

p53 車がすくなかったころは、道路は子どもたちの遊び場でした。「またのぞき」をして遊ぶ子どもたち。(長野県)| 撮影・熊谷元一

道路は、公園よりも はるかに 魅力的な遊び場だった

宇沢弘文『自動車の社会的費用』岩波新書 1974年
p90
//現在自動車通行が認められている日本の道路はそのほとんどについて、もともと歩行者専用のものであった//
p90
//〔道路は〕文化的・社会的交流の場として重要な役割をはたしてきた//
p91
//〔他国事例を受けて〕とくに日本についてみれば、街路は子どもの遊び場としてかけがえのない場所を提供してきた、ということを指摘しておきたい。東京、大阪などの大都市についても、自動車通行によって街路が子どもたちの手から奪い取られる以前には、街路は公園などよりもはるかに魅力的な遊びの場を提供してきたことを記憶している人々は多いであろう。この点についていえば、たしかに東京、大阪など日本の都市における公園の面積は、都市の全面積との比率についても、人口の比率についても、ヨーロッパやアメリカの都市に比較して、問題にならないほど低い。たとえば、東京はわずか1.15平方メートル、大阪は1.32平方メートルであって、ニューヨークの17.2平方メートル、ロンドンの22.8平方メートル、ベルリンの24.7平方メートルに比べて、いかに低いかがわかる。しかし、街路がじつは公園の代替として、あるいは公園よりはるかに望ましい子どもたちの遊び場であったことを考えると、日本の都市はたとえ公園面積は少なくとも、子どもたちにとって望ましい構造をもっていたということができよう。しかし、自動車の普及によってこの状況は一変した。街路はいたるところ舗装され、歩道のないところに自動車が通行する。交通事故、公害などの点から、街路はもはや子どもたちの遊び場どころでなくなってしまった。//

p67
//日本における自動車通行のもっとも特徴的な点を一言にしていえば、歩行者のために存在していた道路に、歩行者の権利を侵害するようなかたちで自動車の通行が許されているという点にある。都市と地方とを問わず、道路は、もともと歩行者のために存在していたものであり、各人が安全に、自由に歩行することができるというのは、近代市民社会における市民のもっとも基本的な権利の一つである。この市民的権利を侵害するような自動車通行がこれほど公然と許されているのは、いわゆる文明国において日本以外には存在しないといってもよい。//

p62 歩道橋
//いたるところに横断歩道橋と称するものが設置されていて、高い、急な階段を上り下りしなければ横断できないようになっている。この横断歩道橋ほど日本の社会の貧困、俗悪さ、非人間性を象徴したものはないであろう。自動車を効率的に通行させるということを主な目的として街路の設計がおこなわれ、歩行者が自由に安全に歩くことができるということはまったく無視されている。あの長い、急な階段を老人、幼児、身体障害者がどのようにして上り下りできるのであろうか。横断歩道橋の設計者たちは老人、幼児は道を歩く必要はないという想定のもとにこのような設計をしたのであろうか。わたくしは、横断歩道橋を渡るたびに、その設計者の非人間性と俗悪さとをおもい、このような人々が日本の道路を設計し、管理をしていることをおもい、一種の恐怖感すらもつのである。//

凶器優先社会:クルマを、なぜ規制できないのか!

 銃規制を、アメリカはなぜできないのか?の問いと等しく、日本は〈なぜ、クルマという凶器通行を規制できないのか〉を問うときにきているのではないか。
 銃の犠牲は不運なのか? クルマの犠牲は不運なのか?
+ 子どを認めたら減速しよう
+ 横断歩道で歩行者を見たら停止しよう

「みち」から「道路」へ
言葉が変わっただけでは、すまない

「みち」──とは

「み」は雅語で美称の接辞。「ち」は道の意。
──『新明解国語辞典 第三版』「みち」の項

古くは、人が通行する所には、そこを領有する神や主がいると考えられ、人はそこを通るときは安全を祈って手向けした。ミサキ(岬)・ミサカ(御坂)・ミネ(峰)などはこの類。しかし、一音節の語は不安定なので、ミネ・ミス(御簾)がミを伴った形でもっぱら使われるようになったのと同様、ミチもこれ自身で一語と考えられるようになった。ミチは多くの人が踏みならし、行き来する筋。また、…へ通じる筋。転じて、道程、方法の意を表す。
──『古典基礎語辞典』(大野晋/編)「みち」の項

思い出は、道といっしょに浮かんでくる。

藤田圭雄(1965年)『童謡歳時記』
p152
//わたしたちの子どもの頃の道は、人間の通るためのものだった。時には馬も通る、車も通る。しかし、まず、徒歩の人間のために考えられていた。それも下駄や草履が半数以上を占めていたから、アスファルトや、コンクリートよりも、土そのままの方が具合が良かった。雨でも降れば泥んこになるが、それはそれでまた風情があった。
 都会の子どもたちにとっては、道路がまた遊び場でもあった。メンコをするのも、ビー玉で遊ぶのも、三角野球をやるのも、羽根つきをするのも、凧をあげるのも、石けりをするのも、ジャンケンとびや、縄とびも、すべて道路が使われた。
 学校へ行く道、お使いに行く道、たのしいことも、うれしいことも、すべて道路からやって来た。
 道路の両側も、今日のように、コンクリートや、ブロック塀は少なく、もっとやわらかい感じの板塀が多かった。嵐のよく朝など、その板塀が倒れて、家の中がまる見えになっている風景もよくあった。からたちや、ぼけの垣根で、季節になると美しい花が咲くこともあった。
 幼い頃のいろいろの思い出が、道につながり、道といっしょに浮かんでくる。//
p154
//わたしたちは、からたちの青いとげの先に、小さく切った紙切れをさして、全速力で走ると、その紙切れがくるくるとまわるのを喜んだものだ。//

p157 サトウ・ハチロー「おくれて学校へ行く道」

  おくれて学校へ 行く道は
  朝でも 日暮の色の道
  人かげのない うらの道
  でんでんむしの すきな道

  おくれて学校へ 行く道は
  いつでも じめじめしている道
  水色蝶々が いそぐ道
  お馬の水のみ ある小路

  おくれて学校へ 行く道は
  店屋が ならんでいない道
  かたがわレンガの 塀の道
  古いポストの ある小路

  おくれて学校へ 行く道は
  とかげがみえて 消える道
  びっこのかえるが 歩く道
  むやみにすて猫 ある小路

  おくれて学校へ 行く道は
  なんだか遠くて のろい道
  つかなきゃいいなと 思う道
  そのまま歩いて いたい道

※第4連に「びっこの……」という言葉のつかいかたがあります。差別語なのでためらうものがありますが、「みち=道」のありかたを問いたいために、公開したいと思いました。
 学校へ行く道の風景が、かつてこのような時代があった。これをノスタルジアに留めないで、学校へ通う気持ちをこの詩が許し包みこんでいるように、学校と子どものかかわりを創造して欲しい。そして、クルマ優先でないまちづくりこそが子どもを育てる社会ではないでしょうか。

「みち」は、どこだ?

階段道(かいだんみち)

ミヒャエル・エンデ『モモ』岩波書店 1976年
p247
//子どもが道路や、緑地その他のところで遊ぶことは、厳禁になりました。そういうところを見つかったりすると、たちどころに近くの〈子どもの家〉に連れて行かれてしまいます。そして親は、定められた罰金を払わなければなりません。//
p350
//大都会では、長いこと見られなかった光景がくりひろげられていました。子どもたちは道路のまんなかで遊び、自動車でゆく人は車をとめて、それをニコニコとながめ、ときには車をおりていっしょに遊びました。//

仙田満ほか『子どもが道草できるまちづくり』学芸出版社 2009年

p3 //はじめに──道を子どもたちに返そう// この項、仙田満の執筆。
小見出し //道はそもそも子どものもの//
//子どもたちの遊び空間には六つの原空間があると私は考えている。その中で主幹的なスペースとして、自然スペース、オープンスペース、道スペースを挙げる。かつて日本の子どもたちにとって、遊び空間の主役は道であった。19世紀後半に来日した外国人の日記や紀行文をもとにして著された渡辺京二氏の『逝きし世の面影』という本の中では、外国人が、日本の子どもたちが道で遊びほうける様に感嘆し、それを暖かく見守る人々の姿に驚いている。渡辺氏は「子どもの楽園」としてその章をおこしている。1924年、造園学者の大屋霊城が日本で最初に行った大阪での子どもの遊び環境調査でも「子どもたちはほとんど道で遊んでいた」と報告されていた。//
※仙田は「道路」と言わず「道」と表現している。
p3 小見出し //1960年代半ばから道は子どもの遊び場でなくなった//
//その道が子どもたちの遊び場でなくなったのは1960年代半ばである。自動車交通が子どもたちの遊び場としての道を奪ったのである。道で遊ぶことは法律によって禁止された。それまで、子どもたちの多くの遊び場のネットワークの機能を道が担ってきた。小川も空地も山も公園も、すべての子どもたちの遊び場は、道という遊び場によって有機的につながれてきた。ところが道は遊んではいけないものとなったため、子どもたちはその遊び空間を一気に失ってしまう。道によってつながっていた多様な遊び場、遊び空間にアクセスしにくくなってしまった。その結果、1970年代半ばでは、遊び空間が大都市で20分の1、小都市でも10分の1に減少してしまった。それに代わるべき公園はというと、もともと日本は公的な空間、即ち公園というスペースが世界に比較して少ない。道を奪われたことによって、子どもたちは新たな遊びのツールとして出てきたテレビに向かい、外遊び時間は1960年代半ばを境に少なくなり、内遊び時間が逆転して増えていった。//
p4
//幹線道路はやむを得ないにしろ、細い街路をはじめ、生活道路には、車の進入制限、スピード制限、ハンプやボラードの設置など、やるべきことは多くあるのに進んでいないのは、住民自体がまだまだ車中心的な都市の考え方に支配されているからだ。//
p5
//いま、道は人々のものになっていない。自動車という、凶器にもなり得るもののためになってしまっている。道を人々に、子どもたちに返すことによって地域も再生できる。ヨーロッパの諸都市で実践されていることが、そしてつい40年前には日本でも実践できていたことが、なぜできないのであろうか。私たちは行政だけでなく、人々の意識を変える努力を続ける必要がある。//

「通学路」で考える

p20
//ある中学生は「今、小諸市の道路は舗装されてよくなってきている。でもそのよくなっていく道路のいちばんの主役は『クルマ』である。道路はよくなっていくが、その反面人間は、小さくなって歩いている。〈略〉人間中心の道路ができてほしい」と訴えている。//
※「」は、小諸市青年会議所『私たちのみた交通問題──市内中学生応募作文集』1973年

椎名文彦『戦後・昭和期 交通安全教育小史──戦後40年の軌跡──』
+ 新生出版 2004年
p94 節のタイトル //「交通教育」という発想//
//交通安全教育が推進されていたこの時期、車中心の交通社会に対する歩行者の「適応」だけを問題している指導方法に、疑問も投げられていた。
 まず、社会学からの提言である。「子どもたちの環境を既成の事実として容認した上でなされる安全教育は、明らかに問題の本質を見失っており、そこから有効な指導方法が引き出されることはありえないであろう。」〔*1〕「行動の安全化」の必要条件として//
※〔*1〕岡崎友典「安全教育をいかに進めていくか──社会学の立場から──」『交通安全教育』No.109 1975年10月
p94
//「行動の安全化」の必要条件として「環境の安全化」を指摘したものだが、「整備期」の頃の次のような指摘とも符号するところがある。「いまの交通安全教育が多くの場合、安全施設の不備をカバーする形でおこなわれている姿は異常である。」〔*2〕//
※〔*2〕玉井義臣「片手落ちの交通安全教育」『朝日ジャーナル』Vol.8 No.15 1966年4月
p95
//「交通参加者(traffic participant)」という概念で、車と人のかかわり合いを主張したものもあった。
「そもそも交通場面は、車と人とによって構成されるが、その車を運転するのはやはり人である。同じ人間が、時と場合によっては歩行者になったり、ドライバーとなったり、それぞれの地位 status により、それにふさわしい役割 rule を演じるわけである。となるとこれは、単なる道路利用者 road user ではなく、それぞれの道路場面にどのような形で参加するかということである。」〔*3〕
 こうした道路を介在して、人と車の「合意」づくりを考え合うことは、交通安全教育というよりは「交通教育」と呼べるものである。交通安全教育が当然のこととしてきたことに対する発想の転換を迫る問題提起がなされたわけである。//
※〔*3〕西山啓「交通安全教育6・3・3システムへのすすめ」『健康と体力』第14巻 第10号 第一法規 1982年9月

 交通「安全」教育という”指導”が、人とクルマが対等でないことを、いわゆる交通戦争時代(1960年代)より識者・関係者のなかで指摘されていた!

── あそびません こわいくるまの とおるみち ──
1963年 全国交通安全運動の年間スローガン

── 飛び出すな! 車は急に止まれない!──
1960年代から70年代にかけて

── 飛び出すな! 子どもは急に止まれない!──
汐見稔幸 『子どもの遊び・自立と公共空間』明石書店 2009年 p5

── 徐行せよ! 子どもの飛び出しに備えよ!──
── その速度で止まれるか! 子どもの飛び出しに!
わたしの改作 2023年

仙田満ほか『子どもが道草できるまちづくり』学芸出版社 2009年
p114~124 章タイトル「学校と通学対策」担当執筆者:椎名文彦
※以下、要約
 「通学路」「交通安全教育」という用語は、文部省(当時)事務次官通達「交通事故の防止について」が初出という。以来、本署発行当時2009年まで、//通学路は用語として一般化してくるが、通学路には交通事故防止が恒常的な問題として今日まで課せられている。//p115とし、p209//教育条件あるいは学校施設・設備の整備と言った時、一般的には通学路は含まれないことが多い。//とある。文部省(文科省)等、子どもの通学についての対策やその経緯は細かく述べられている。p118//こうした通学対策は、交通事故激増が続いた1950~60年代にその基本形態ができていたが、内包する課題は今日まで続いている。//
 p119//その一方で学校では、教職員のいたたまれぬ思いを支えとして、その指示に従って地道な取り組みが続けられてきたが、その状況が、本来は教育行政がすべきことを、できるだけ学校現場に「委任」する実践形態を助長してきた背景ともなった。とりわけ予算措置がないことは特徴的である。//
 p120//こうした方式は、「この『交通安全教育』は、交通戦争から子どもを守れという時代の要請にせかされての『見切り発車』的な発足であったためか、学校側としても、学校安全とは何か、安全教育とはどのような範疇をさすか、といった本質論については、十分のツメが行われていなかった」という指摘があるように、「観念的な指導目標を思弁するよりは、方法を研究して指導内容を形成する方が重要である」といった考え方を先行させ、子どもに直接的な行動修正を強いてきた。//
※つまり、リクツはいらん! どうやって死傷者を減らすか、それが先や! 子どもをシツケたらエエんや!
 p123//そのまま地域の危機になることがわかる。〔↓▼下を受けて〕通学路を安全で安心して歩ける場に再生することは、そのまま地域の平穏な生活につながる。地域の平穏な生活が、学校と子どもの安全・安心になる。これからの地域のまちづくりの基本はここにある。//というリクツを導き出しているにもかかわらず、時代はさらに進み、p123//しかし、今日の「クルマ社会」では「障壁」がある。その一つが、大人の考える地域と子どもの考える地域にずれが生じていることである。ここ数年、地区懇談会や地域住民が参加する会合で話題になることに、子どもの「クルマ送迎」がある。それは、雨天時だけでなく不審車(者)の出没に伴って多くなっているが、保護者を含めた地域住民の意識と無関係ではない。
 子どもの地域は、それが生活の場であり、発達の場である学区、すなわち歩いて行ける範囲である。それに対して大人の地域は、通勤などクルマの走行可能距離の範囲に拡大している。クルマは日常茶飯事として暮らしの中に入り込み、距離と時間の観念を変え、今日の「平成の大合併」を何となく許容してゆく素地になっていたと考えられる。このことが、時間をかけて歩くより早く行ける「クルマ送迎」を助長し、通学路が「車道」になることを容認している。//


p123
//地域の地図を広げて、子どもの家庭から学校までの順路を赤鉛筆で引いてみる。子どもが毎日通学する通学路が網状に赤く染まる。新たな大型店舗の進出や幹線道路(バイパス)の造成で変更を余儀なくされた所、少子化に伴って赤線が一本もない集落も出てきたが、通学路は地域を「血脈」のように結んでいる。通学路を通れば、子どもだけでなく地域住民の誰もが、地域のほとんどの所に歩いてゆくことができる。子どもの遊び場も結んでいる。
 この地図を見れば、通学路の危機が、そのまま地域の危機になることがわかる。〔↑▲上に続く〕通学路を安全で安心して歩ける場に再生することは、//
p124
//少子化の中であっても、「地域と学校で育つ子ども」を通学路を通して考える時である。
 「血脈」のように地域を網羅する通学路を有効に機能させるために、「クルマ社会」からの脱却は、通学路の再生にとって重要な課題である。//

創作された通学路:駒ヶ根市

鈴木浩『小学生が描いた昭和の日本』(石風社 2022年)p180 クルマがこわかった
50年前の小学生ということなので、減ずると 1972年頃

2021.2.22記す

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