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松宮満の見聞読録 <3> 2020.7
出生数は70年間に7割減
昨年2019年(平成31年/令和元年)1年間に生まれた日本人の子どもの数(出生数)は86万5234人、合計特殊出生率は1.36だった。
と、コロナ騒ぎで多忙を極める厚生労働省が6月5日、人口動態統計の速報値を発表した。
少子化少子化、大変だ大変だ、どうするどうする、と、言ってる間にも間断なく少子化が進行し、いよいよ「出生数80万時代」に至った。マスメディアは「80万ショック」と呼んでいるようだが、何を寝ぼけたこと言うてんねん。まるで他人事のように聞こえるで。と、言いたい。
では、出生数80万がなぜショックなのか、どれくらいショックなのだろうか。
その理由を新聞は次のように書いている。
「統計がある1899年以降で最少となった」(2020年6月6日付 朝日新聞)
……なるほど。
1899年は明治32年に当たる。この年から我が国の人口動態統計が始まったので、私たちは120年分の人口動態の変遷を知ることができる。
では、明治32年の出生数は何人だったのだろうか。統計を見てみよう。
120年前の出生数は、約139万人だった。
その後の推移を大雑把に観てみると次のようだ。
- 明治32年(1899)138万6981人。以下、
- 大正元年(1912)約174万
- 昭和元年(1926)約210万
戦前昭和は敗戦までほぼ210万ペースで子どもが生まれている(植民地を含む)。
(ただし、昭和19・20・21年の3年分のデータは敗戦前後の混乱で欠落)
戦後、
- 昭和22年(1947)約268万(昭和22~47年は沖縄県を含まない)
- 昭和23年(1948)約268万(昭和22・23・24年が第1次ベビーブーム)
- 昭和24年(1949)約270万
- 昭和25年(1950)約234万
- 昭和30年(1955)約173万
- 昭和47年(1972)約204万(昭和47・48・49年が第2次ベビーブーム)
- 昭和48年(1973)約209万
- 昭和49年(1974)約203万
- 平成元 年(1989)約125万
- 平成31年(2018)約92万
- 令和元 年(2019)約 87万
また別の見方もしてみよう。戦後の出生数の増減のパターンをごく大雑把に概観すると、次の3期に分けることができる。
昭和24年(1949)…270万人
(第1次ベビーブームのピーク)
↓
① 8年間に110万人減
昭和32年(1957)…160万人
↓
② 16年間に 49万人増
昭和48年(1973)…209万人
(第2次ベビーブームのピーク)
↓
③ 46年間に122万人減
令和元年(2019)… 87万人
こうして眺めてみると、令和元年の出生数87万人がいかに少ないかが分かるだろう。
戦後ベビーブーム(昭和22~24年)の260万~270万人と比べれば、87万人はわずか3割に過ぎない。実に、7割減ということだ。
70年間に7割減。
併せて、戦後ベビーブームが3年で突然終わり、以降8年間に年間出生数が一気に110万人減少、4割減になった第1期の激減現象も気になるところである。
現代につながる少子化の原点がここにある。
しかし、この統計上の変化は、いかにも不自然な変化であり、なんらかの「作為」あるいは「作用」が働いた結果こうなったのではないかとの疑問が浮かぶ。その作為とは何か。
その作為とは、実は敗戦後の我が国の人口増加を危惧した政府の国策「少子化政策(出生数の抑制)」である。その国策が「効を奏した」結果とみることができるのである。 我が国の少子化の最初の原因は政府の政策の結果なのであるとみることができるが、この件については、稿を改めて次回に検討することにしたい。
ところで、令和元年(2019)の出生数は「統計がある1899年以降で最少となった」と、朝日新聞の記者は書いているが、何気なく読んでいると、あたかも「この年に初めて最少となった」かのように読める。
しかし、「統計がある1899年以降で最少となった」最初の年は、1985(昭和61)年だった。それ以来、実に44年間の長きにわたって“史上最少記録” はほぼ毎年更新され続けられ、2019(令和元)年もまた最少記録が更新されたというわけだ。まして、最多の年と比べて7割減少したのである。
「1.57ショック」と呼んで騒いだのは30年前だった
先に見たように、2019(令和元)年の出生数を知ってマスメディアは「80万ショック」と言っているようだが、思い返せば、30年前、1990(平成2)年に当時のメディアは、たしか、こう言ったよなあ。
「1.57ショック」
これは、1989(平成元)年の合計特殊出生率が「1.57」となり過去最少記録となったことを指している。それまでの過去最少記録だった1966(昭和41)年の「1.58」を下回ったため、時の政府とマスメディアは「大変だ大変だ、どうする?どうしよう?」と騒ぎ始めたのだった。(その1.57ショックの年でも出生数はまだ約122万人だった)
しかし、2019(令和元)年は「1.36」になったのに、今ではだれも騒がない。
ちなみに合計特殊出生率とは、女性(15~49歳)の年齢別出生率を合計したものであり「一人の女性が生涯に産むと見込まれる子どもの数」とみなされている。
この「1.57ショック」を受けて、政府は初めて「少子化」という言葉を使ったのである(『平成4年版厚生白書』) 出生数が減り続けていることぐらいは、とっくにわかっていたのに。政府はなぜ、この事実を見て見ぬふりをしてきたのだろうか。
たしかに1966(昭和41)年は出生統計上特異な年だった。この年は十干十二支(じっかんじゅうにし)の丙午(ひのえうま)にあたったため、マスメディアが喧伝した丙午の俗信(この年生まれの女は夫を食い殺す)を気にして都市の若い女性が妊娠を控えた。その結果、突然出生数が激減し、合計特殊出生率も極端に減少したが、翌年には元の水準に戻った(182万→136万→194万)、という特異な年だった。
この特異な丙午の年の出生率をも下回った「1.57ショック」をきっかけに、政府は、あたかも「今気が付いた」かのように、ようやく1994(平成4)年から「少子化対策(子育て支援)」を始めたのである。
いわく「エンゼルプラン」「新エンゼルプラン」「子ども・子育て応援プラン」「子ども・子育てビジョン」などの策定、「次世代育成支援対策推進法」「少子化社会対策基本法」「少子化社会対策大綱」などの制定など、政府は以後25年間、国策の重点課題として少子化対策を施行してきた。
施策のタイトルは大げさだが、具体的には、保育所待機児童解消とか児童手当の増額とか学童保育の拡大とか、目先の“ご機嫌取り”に終始してきたにすぎない。
その結果はどうだ。
「少子化対策が喫緊の課題です」歴代総理大臣はこの25年間同じお題目を唱え続けてきたにもかかわらず、この間出生数は減り続け、今日に至っている。もっと言えば、第2次ベビーブームが終わった1973(昭和48)年以降47年間、出生数は減り続けてきたのである。
「多子化」にブレーキがかかったのに「少子化」にはブレーキがかからない。
政府の少子化対策は、なぜこんなにも中途半端で及び腰なのだろうか。
政府とメディアは一丸となって、敗戦後ベビーブーム時に「このまま子どもが増えたら我が国は滅ぶで」と国民を脅し、第2次ベビーブーム時には「将来の人口爆発を避けるために子どもは2人までにしましょう」と啓蒙してきた結果の少子化である。「産児制限」とか「家族計画」がキーワードだった。敗戦後から昭和50年代(1080年代後半)まで将来の人口過密を避けるため子どもの出生数を減少させることが国策されてきたのである。
国策としての少子化(人口抑制)政策は目論見通りに「順調に」進行した結果、皮肉なことに今では「バランスを欠いた」超少子高齢社会が到来してしまった。事ここに至って政府やメディアはころりと手のひらを返し、「このまま子どもの数が減ったら我が国は滅ぶで」と国民を脅さざるを得なくなったのである。歴代政府の失政を棚に上げて。
少子化推進政策から少子化緩和政策への180度の手のひら返し。
政府の及び腰は、こんな背景が反映しているのかもしれない。
なお、政府が「出生数を減らすため」に思いつき、みごとに「奏効」した決定的な策とは何だったのか。その事情ついては、次回に検討したい。
松宮満 2020.7.5
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