認可保育所をつくろうとしている園長と話しをしていて、父親の「保育園のファンクラブ」をつくってはどうかと提案した。豊中市のT保育園は上階に保護者や父親が懇談する専用ルームを設置していた。1970年代前半に活動を始めた「兵庫県自然教室」では親たちの参加を積極的に進めていた。父親だけの集まりを夜に開催して好評だった。
窓ふきなどの掃除、遊具製作で父親の手を借りようという呼びかけはよくある。そうではなく、お茶会などで懇談をしようという提案だ。
「火おこし(火熾し)」というイベントを私はときどきする。子ども向けで行うことから「昔遊び」のような捉えられ方をされがちだが、そうではない。古代に火をおこすことが日常だったとしたら、そのつど大変な作業だったとは想像できない。イベントでも火がつくときは3分以内だ。それ以上は体力がもたない。古代の人は日常生活はすべて体力が勝負だから、火おこしはたとえば1分以内で体力をさほど消耗しないことだったのかもしれない。
イベントで子どもが行った場合、子どもは小学生のケースが多い。火は熾らない。家族連れだと、スマホで記念写真となる。舞きり式という方式で、見守っているおとなは貴重な体験だと眺めている。しかし、なかなか火は熾らない。煙がたてばよいほうで、もうちょっと!と励ましているうちに子どもの体力はなくなってしまう。そして、ここぞと父親が登場する。母でなく父なのだ。こうして火おこしイベントは家族ぐるみとなる。父親の活躍で炎を見ることになれば、父の役割が見られて微笑ましい。
あかちゃんが生まれた当初、父はおたおたと見守るしかない。妻を励ましたり、妻の負担を軽くしようと家事をさがし受け持とうとする。
だからこそ、保育園に父を対象としたファンクラブがあり、お茶ときには酒を酌みかわわしながら、子育てを共有する場があってよいと私は思う。大家族から解放されて、では核家族でどうやって子育てをしたらよいのか。父の役割を根っこから考えて欲しいと思う。
大家族時代、用事があって学校へ足を運ぶのは、父の役割だったという。しかし、当時のそれと、いま私が問うていることとは意味が違っている。
2019.4.4記す