叱られる側で考える ── 擬育16

 子どもに、おそらくおとなに対しても、上手なほめ方はあっても、上手な叱り方はない。叱り方は下手でよい。叱り方に自信はなくてよい。
 ところで、叱られたいと思ったり、叱られてもよいと思った経験のあるおとなはいると思う。叱られて、その先、どうして欲しいのだろう。叱られる時間はできるだけ短いほうがよい。一瞬、ひとことでよい。そんな叱られ方だったら、叱られたい。
 子どもは、叱られたいと思うだろうか。たぶん、思わない。しまったと思ったら、ごまかすか逃げるだろう。上手な叱り方はないのに、上手な叱られ方は、子どもにとってあるのだろうか。
 タイミングよく叱られた子どもは、舌をだす、くちびるをかむ。一瞬にして「ごめん」と返す。つまり、対話なのだ。言い換えると、対話を成立させるタイミングがあったときのみ、叱ることができる。
 一概には言えないけれど、後でじっくり叱られるのがたまらない。対話になりにくいからだ。内省というのは、言葉になりにくい。内省を内言と言い換えると、内言を外言として表現できるようになるには時間がかかる。おとなになるまでかかるかもしれない。
 先のこたえを記しておこう。一瞬、ひとことで「叱られたい」と思うとき、それは結果で気づくことだが、行動(思考)を外からの力で止めて欲しい、と無自覚ながら秘めている飛躍のときだからか。
 おとな(親)が自分の思い通りにならないから、子どもを叱る。言いにくいけれど、これはできるだけ避けよう。対話が成立するかもしれないとき、おとな(親)の思いを伝えたいチャンスかもしれない。これを「叱る・叱られる」というならば、受け入れたいと思う。

2019.9.19記す