||||| 育てるは似せること:造語(擬育 ぎいく)|||

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 自然系の映像ドキュメンタリーで生態や野性の情景が映し出される。「擬態(ぎたい)」の不思議も取り上げられる。
 林明子の絵になる『もりのかくれんぼう』は、森に生きる動物たちがかくれんぼうするさまが描かれる。枯れ葉に似せた蛾、花と見紛うカマキリ、どうしてそんな遺伝子が発生し受け継がれるのか。林明子の絵は擬態を描くものではないが、森で遊ぶ少女と動物の交流で、エッツ『もりのなか』、センダック『かいじゅうたちのいるところ』などこのテーマで描かれた物語はたくさんある。
 「似せる」「かくれんぼう」に連想して「擬態」が気になり始めた。俄に造語「擬育(ぎいく)」が浮かんだ。擬態の訳語を調べたら Mimesis があった。単語1つで複合語ではない。「擬態」は誰の訳か知らないが、日本語を創作したのだろう。そして、私は「擬育」と造語してみた。「擬」は真似する/似せるという意味から、「擬育」とすることで「育てるは似せること」と思案することになった。(※同じ音「偽」とは違う)
 「子育て」は、もしかしたら、模倣ではないか。擬態の不思議を畏れと表現すれば、子育てを何かに似せようとしたとき、それは畏れといえないだろうか。似せることは、生命の不思議と同じでないか。
 ただし、擬育=同調でないことを言っておこう。皆がそうしているから私も同じ事をする同調とは違う。擬育は創造であり、畏れ敬う行為なのだ。

※マルコ・イアコボーニ(2008年)『ミラーニューロンの発見』ハヤカワ文庫 2011年──この本のp66に「人間の物真似細胞」という小見出しを掲げ、模倣は人間の生得的特性とも言える記述がある。

擬態について

トリは「ダマされている」ということ自体を気づかない。つまり、トリには「擬態」というものが存在しない。ヒトには擬態を識別する脳力がある。

p194 養老孟司『唯脳論』文庫版
//形は一目でわかるからこそ、ダマされる。だから擬態がある。ふつうの人は擬態そのものに気づく機会がない。そのこと自体が、視覚がダマされやすいことをむしろ証明している。元来形に証明はない。自明があるだけである。//
p210
//目で見たものがダマされやすいことは、擬態を例として、すでに述べた。ダマされたということがわかるのは、他の感覚による「検証」が存在するからである。だからこそ、「形に証明はない」。こうして視覚像は他の感覚によって絶えず「選択」される。//……//「よく見たら気づく」というのは、おそらく真の擬態ではない。本人がただそそっかしいだけのことである。//……//トリにとっては真の擬態が存在する。ただの詐欺では、あれだけ特異な生物学的現象は生じないであろう。擬態している動物どうしは、トリにとってはおそらく「まったく同じ動物」である。つまり「真の擬態」とは、「トリの視覚にとっては擬態ではない」ものである。それを訂正するものは、本質的には他の感覚系でなければならない。それはヒトの感覚系であり、したがってヒトは擬態という概念を創る。残念ながら、言語のところで述べたように、ヒトのような型の視聴覚の連合は、トリにはない。だから視覚はダマされっぱなしであり、自分がダマされているという認識は、「経験によって進歩」しない。ゆえに、敵役の昆虫は、喜んで擬態を採用する。一方、ヒトなら「擬態に気づく」のである。//……//しかし、擬態を見破ることは、おそらくヒト種にとって、ほとんど「生存価」を持たない。こんな脳力は、自然選択で生じたものではない。「たまたまそうなった」のである。自然とは皮肉なものである。//
※虫取りに夢中になっている子どもは擬態を見抜いてセミを採る。虫取りが苦手な子もいる。それはそれで「生存」を脅かすほどでない。

ライアル・ワトソン『思考する豚』p35
//子豚は途切れ途切れの縞模様〔うりぼう?〕で体中飾られている。そのおかげで、まったく動かずに横たわっていると──危険を察知すると、まだら模様の森の地面の上で「死んだふり」をする──地面とほとんど見分けがつかない。//

2023.4.20Rewrite
2020.1.7記す

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