震災10年を前に思うこと

つぶやき……2021.3.6

 東北の大震災から10年が経とうとしている。マスコミがその特集に力を入れていることは理解できるが、それがすべてでない。象徴でもない。ムードだけが通り過ぎるとすれば、それはいたたまれない。

 先日は、余震とはいえ、恐怖をよびおこした。PTSDという言葉をご存じならば理解できるだろう。年に4回、私はたびたび訪ねているが、現地で余震に出遭うことはしばしばだった。それは、軽く揺さぶられている程度で、ただちに避難を想起しないが、現地に来たという思いに十分だった。改めて、先日の強い余震に遭われた被災地のみなさんにお見舞い申し上げます。

 2015年1月、午前10時半頃、女川原発の初めての事故を想定した訓練に遭遇した。保育園児は先生に誘導されて部屋に「避難」した。しばらくして、再び、園庭に姿を見せた。「津波って何?」と尋ねる子ども。(ぐるぐる)とまわる波の絵を庭に描いて説明しようとする女児。「放射能というバイキンって、何?」と、私は尋ねられた。すべてがリアルで一瞬のことだったから、どう応えてよいのか、惑うばかりだった。そのとき、またサイレンがなった。子どもたちは、はっきりと脅えて、再び保育室に”逃げ込んだ”。

 2015年のことで、まだ生を受けていない子も多くいたはずだ。生まれていても、記憶にないはずだ。なのに、なぜ、こんなにも脅えるのか! 不思議だった。

 さまざまな状況下の、幼い子が多くいた。先生からの、(震災とは関係ない)問いかけに、まっすぐに手をあげる子が、つまり、しっかり者がいた。でも、幼い。どうして……。後で訊いて確かめると、3歳だった。どうして3歳の幼い子が、あんなにしっかりしている様子なのか? ご両親を震災で亡くし(または離婚?)、お婆さんに預けられ、お婆さんに「しっかりしなさいよ」としつけられているらしいのだ。いたいけないその姿に胸が押しつぶされた。

 どんなことにも譲る年長の女児もいた。我も我もと、我慢できないときなのに、譲ろうとする姿が胸を打った。その子は、今、中学生になっている。それが、10年という歳月だ。

 私は石巻しかしらないが、被災地は一様でない。復興で開かれた地、すっかり面影を変えてしまった。復興というより、今まで住んだことの無い、見たことの無い景色になって「今」になっている。

 石巻市で建設が進みつつある国立の震災祈念公園がテレビでおお映しされるだろう。そこでは、行方不明者が捜索されないまま(震災直後は捜索されただろうが、それ以降は5年後になった形だけの捜索は行われた)整地され、公園になろうとしている。これを冷ややかに見ている被災者もいる。死体が埋まっているかもしれないところを人々が訪れることをたまらないという。

 神戸でもそうだが、震災で見えないままになっているところが、東北の至る処で、あるいは心のなかにあるだろうことを思って、合掌。

2021.3.6記す