||||| 実現への提案……遊び場など三間の保障 |||

Home > 砂をすくうように > 「子ども期の再生」実現への道のり

 生まれたばかりの「あかちゃん」には、親は従うしかない。注文をつけても無駄だから。這い這いの最中までは、そうだろう。しかし、立ち上がり、いたずら盛りになると、我が子をコントロールしようとする。もう死なないからだ。
 かつては、生きつづけるとは限らなかった。将来を託すことができるようになったのは300年ほど前だ。しかし、その300年以前も、今も、さらにおそらく古代も、子どもは”子ども”だった。
 子どもが”子ども”であったとき、子どもは自身に必要なことを体験し学んだ。それが、今ではすっかりコントロールされる存在になった。そこに、お金もかかる。世帯の所得と子どもの進む道に相関があるとされる。教育学者の廣木克行さんは、ある教育講演会で、「(おとなに対してだけでなく、昨今は子どもにもサプリメントが与えられている)子どもにサプリメントは必要ありません」と、幼児や小学生の、満員の親たちへ、遠慮がちにしかしきっぱりと言った。サプリメントが何を意味するのか明確ではなかったけれども、講演内容から、補助食品(サプリメント)の目的に照らして、子どもの素質はそれぞれに各人で自然に伸ばすのがよいと主張しているように思えた。(親たちを目前にして、よく言えるなあと驚いた。)これの実際は複雑・多面的で一概に言えないけれど、300年前にも遡れる”子ども”に必要だった遊びを今こそ体験させることが必須と訴えている。

 では、どうすればよいか。遊びが成立するためには〈友達(仲間①)〉〈時間②〉〈遊び場(空間③)〉の3つが必要とされている。これを三間(さんま)と言う。条件3つのうち、そのいずれもが成立しにくい現代になっている。これは個人(家庭)の努力で解決しない。地域/自治体/社会の課題になっている。
 子どもが「育って」やがておとなになるのだが、その「育ち」の前提がすでに消失している・消失しつつあると私は思う。小学5年生にもなれば、すっかり「おとな」というのが私の考えだが、すでに多くの困難な事象が起きている。
 このことが解決に向かわないときは、300年以前のように「子どもがいない」という時代がやがて到来するということになるのだろうか。

 前述した「生きつづけられるかどうか」の課題は解決したように思う。幼児を背におぶって学校に通ったりして面倒をみていた過去も今ではなくなった。しかし、ヤングケアラーの問題は解決していない。おとなになる道は、まだまだ狭く迷路のような気がする。

2021.10.15記す

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