
山鳥重『「気づく」とはどういうことか』
+ 副題:こころと神経の科学
+ ちくま新書 2018年
p26
//生命体は、地球が誕生した46億年前には存在していませんでした。無機物ばかりが地球の表面を覆っていたのです。//……//40億年ほど前に、地球に突然いちのあるものが出現しました。//
地球(無機物のかたまり)→(創発)→いのち……神経系の進化→(創発)→こころ
p35
//創発現象は地球上で二度起こったと考えられます。
まず、地球の誕生から6億年ほど経ったころ、地球上の物理化学的諸条件を踏まえて、いちのというそれまでには無かった現象が創発し、それからまた30億年以上の時間が経って、海中に脊椎動物の祖先と考えられる動物(現生ナメクジウオに似た生物)が進化してきます。現在から逆算すると6億年ほど前になります。この生物は脊髄神経索を備えた最も古い動物だそうです。
そして、この脊髄神経索がまたまた長い時間をかけて進化し、そのどこかの段階で、こころというそれまで無かった現象が創発したのだろう、と考えられます。
創発という考え方を最初に提唱したのは、イギリスのロイド・モーガンという学者です。モーガン自身は、もともとはS・アレキサンダーの言い出した考えだと言っていますが(このアレキサンダーが誰なのか、勉強不足でよく分かりません)、たいていの考えは、その前に誰かが言っているものなので、そこは失礼しておきます。
モーガンは、正確には、「創発」ではなく、「創発性進化」と言っています。
彼は、創発性進化を「それまでに存在していた秩序ある事象が、時に、まったく新しい秩序を生み出すこと」と定義しています。
そしてその例として、いのちの出現、こころの出現、そして思想の出現を挙げています。
進化の長い過程の中で、ある物理化学的システムが、偶然なのか、必然なのか、そこは分かりませんが、それまで存在していなかった新しい現象を生み出しました。それがいのちです。そして、いのちという物理化学生物学的システムが、今度はこころを生み出したのです。//

p34
//たとえば、わたしの手に熱湯がかかって(原因A)、その手を反射的に引っ込めた(結果B)とします。やはり時間はAからBへ経過し、熱湯がかかった手と引っ込めた手は同じ手です。同じ空間の出来事です。
しかし、こころは様子が違います。
手に熱湯がかかった(原因A)時、わたしは「アツッ!」と感じます。
この「アツッ!」という感覚を原因Aの結果と考えることができるでしょうか?
「アツッ!」は、わたしのこころの経験です。このこころの経験は、手に熱湯がかかったことが先、「アツッ!」の感じが後と、同一の時間系列に並べられますが、空間的には同一系列になりません。手は空間を移動しますが、「アツッ!」はこころの経験ですから、手が動く空間とは関係ありません。そもそも空間という物理的概念に納まらない現象です。
つまり、火傷(生物的現象)と「アツッ!」という感じ(心理的現象)を同一次元の出来事とみなすことはできないのです。
熱いという経験は本人だけの経験であり、そばに誰かが居合わせたとしても、その人が同じ痛みを感じることはありません。その熱さを想像し、共感することはできますが、あくまで想像というこころの働きによる間接的経験であり、共感というこころの働きによる経験であって、本人のこころに生じた痛みの経験そのものではありません。
心理的経験はこのように誠に不思議な現象ですから、熱湯を浴びてその手を引くという身体的事象(神経過程)と「アツッ!」という経験(心理過程)は同列に扱えないのです。
こう突き詰めてみますと、こころは生命体(神経過程はその一部)を母胎に出現した、神経過程とは性質の異なる新しい現象なのではないかと思われます。つまりこころは神経過程から「創発」したのです。あるいは「創発」するのです。//
p78
//運動には意識されない心理過程が共存している//
p78
//ここで難しい問題が、出てきます。
避けて通ってしまってもよいのですが、ちょっと卑怯な気がしますので、取り上げます。
それは、意志(心理過程)はどうして運動(神経過程)を制御できるのか、という問題です。二つの過程は因果関係にはないと言った以上(第一章)、わたしとしても、なんらかの落とし前をつける責任があります。//
※リベット『マインド・タイム』で、意識の前に無意識(非意識)が先行すると、実験的証明あり。

p90
//中枢神経系とは、頭蓋腔とそれに接続する脊柱管腔に納まっている厖大な数のニューロン群が作り上げているニューロンの網目(ネットワーク)のことです。肉眼レベルでは、頭蓋腔に納まっている部分は大脳、間脳、中脳、橋、小脳、および延髄に分けられ、脊柱管腔に納まっている部分はまとめて脊髄と呼ばれます。中脳、橋、小脳、および延髄はこれまたまとめて脳幹と呼ばれます。これらをひっくるめて本書では「脳脊髄」と呼ぶことにします。「脳」と呼んでもよいのですが(一般的にはそう呼ばれていますし、実はわたしもずっとそうしてきました)あまり正確とは言えません。脳脊髄を「脳」一語で代表させてしまいますか、当然のことながら、あちこちでお目にかかる「脳の図」を連想してしまいます。丸くて、二つの半球に分かれていて、表面がしわしわの臓器ですね。しかし、この図は中枢神経系のシンボルにすぎません。実際にはこのような独立の「脳」は存在しないのです。脳は組織的にも機能的にも脳脊髄の一部に過ぎません。//
※左図参照
p188
//〔分離脳〕手術後、本人になにか重篤な神経症状が出ることはありません。
麻痺やしびれや物忘れなど、術前と違う症状は何も出ないようです。
それどころか、治療の目的であったてんかん発作の回数が劇的に減り、本人は大満足なのです。
本人に尋ねても、それ以外、特に変わったことはないと、言います。
実際、初期の〔1944年ごろ米国で始められた p188〕手術例を検査した心理学者は、特に異常な心理症状は出なかった、と報告しています。ところが、その後しばらくして、前にも引用したスペリーという心理学者のグループが、米国の別の施設で交連線維の切断手術を受けた人たちを詳しく調べたところ、実にとんでもない異常が見つかり始めたのです。
具体的な検査手順はややこしすぎるので全部省略して、結論を先に言ってしまいますと、分離脳患者のこころは、なんと二つに分離していると考えるしかない状態になっていたのです。
まず抑えておかなければならないことがあります。すなわち、交連線維を切断しても、左右の大脳半球はそれぞれ、その下位に位置する間脳、脳幹、および脊髄とはつながったままですから、これらの領域を介して左右の大脳半球の神経過程はつながっています。大脳半球同士も、全部の交連線維が切断されるわけではないので、ある程度はつながっています。
ただ、左右の大脳半球は、お互いをつなぐ主だった連絡路を失いますから、機能的には左半球大脳皮質を最上位とし、間脳以下はそれまで通りの中枢神経系と、右半球大脳皮質を最上位とし、間脳以下はそれまで通り中枢神経系と、二つの中枢神経系が同時に活動する状態になります。
この左右二つの神経過程のどちらからもこころが創発していて、しかもお互いのこころの内容を知ることは無いらしい、という驚くべき事実が発見されたのです。
ここがスペリーたちのすごいところですが、彼らは分離された大脳半球の、どちらか一方だけに、認知課題を入れ、その課題をやってもらう、という実験を工夫しました。
交連線維を切断してしまうと、右手と右視野は、反対側の左半球とはつながっていますが、右半球とはつながらなくなります(完全にそうなってしまうのではなく、右手と同じ側の右半球とのつながりもあるのですが、わずかです)。逆に左手と左視野は、反対側の右半球としかつながらない状態になります。
ですから、右手や右視野に何か課題を与える(右手にリンゴを持ってもらい、名前を尋ねる。あるいは右視野にだけリンゴの絵を見せて名前を尋ねる、など)と、左半球を頂点とする神経過程が活動し、この神経過程と共存する心理過程(こころ)が触覚心像や視覚心像や語心像を動員して、名前を言う、という課題をやりとげることになります。これはOKでした。どんな課題を課され、どんな答えを出しているのかもすべて意識しています。
今度は、左手や左視野に何か課題を与えます。具体的には、左手にリンゴを持ってもらい、名前を尋ね、あるいは左視野にだけリンゴの絵を見せ、名前を尋ねます。
すると……。
左手のリンゴに対して、正しい名前が返って来ないのです。まったく答えないのではなく、答えは返ってくるのですが、間違っています。左視野に見せたリンゴの絵に対しても、反応は同じで、名前を言ってはくれるのですが、間違っています。
右大脳半球を頂点とする神経過程に共存するこころは、正しい触覚心像や正しい視覚心像を立ち上げるのですが、これらの心像は対応する語心像を立ち上げることができないらしいのです。
なぜなら、語心像経験というのは、左半球を頂点とする神経過程から創発するこころの働きなのです。右半球系の神経過程は語心像を創発しないのですね。
じゃ、なぜ間違いとは言え、名前を言うのか? 黙っているほうが自然ではないのか? という疑問が湧きますが、名前を言っているのは左半球を頂点とする神経過程に共存するこころなのだと考えると、説明がつきます。左半球系神経過程に共存するこころが、右半球系神経過程に共存するこころが立ち上げているリンゴの視覚心像を経験できないまま、名前を要求されて、勝手にしゃべっているのです。
右半球性のこころは、語心像を立ち上げることができず、そのためしゃべることはできないので、沈黙の半球と呼ばれることがあります。
左手のリンゴや左視野のリンゴに正しい名前はつけられないものの、右半球性のこころの触覚心像の立ち上げ能力や視覚心像の立ち上げ能力は正常です。それどころか、顔やシーンなどの視知覚能力に関しては、左半球性のこころよりも優れていることが分かっています。感情経験も左より豊富なのではないか、と言われています。
さらに興味深いのは、右半球性のこころは、言語能力が左に比べて劣っているだけでなく、「今」経験しつつある自分のこころの内容を意識する力においても、左より劣っているようなものです。
なんとも不思議な事態です。
左半球性神経過程から創発するこころは、われわれと変わらない普通のこころと考えられますが、右半球性神経過程から創発するこころは、感情が動き、感覚性心像や、超感覚性心像もしっかり立ち上がっているものの、言語能力は十分に立ち上がらず、しかも、これらの経験が意識化されないなど、われわれが経験する普通の意識状態とは性質が異なっている可能性があります。
いずれにせよ、手術が作り出した分離脳状態では、一人の人間の中で、二つの異なるこころが同時に活動していることになります。そしてこの二つのこころはそれぞれ完結しています。どちらかのこころがどちらかのこころに影響を与える、ということはないようなのです。
心理現象は神経過程から創発し、神経過程と共存します。一つのからだであっても、二つの高次の神経過程が相互に干渉なく活動できる、などという特殊な条件が生じた場合、それぞれの神経過程からそれぞれ別のこころが創発する可能性があるのです。//
※リベット『マインド・タイム』では、「二つのこころ」を否定しているように思われる。
p208
//個体発生の歴史は細胞に刻印されている//
p211
//40億年のいのち(生命進化の全歴史)が今のわたしに現れているのであり、もう少し短く言えば7~8000万年のいのち(霊長類の系統発生の全過程)が今のわたしの背景をなしているのであり、うんと短く言えば78年のいのち(個体発生の全過程)が今のわたしを生きています。//
※《個体発生は系統発生を繰り返す》を指しているのであれば、今や否定されているのではないか!
2025.10.8記す
