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  • 小森陽一(こもりよういち)『心脳コントロール社会』
    • ちくま新書 2006年 ISBN978-4-480-06312-0

 「こころ」だ、「脳」だ、そういうキャッチフレーズに慣らされると、書名の「心脳」になんの疑問も持たないかもしれない。「心脳」は国語辞典に載っていない。この漢字2文字は何と読むか? 本書では「しんのう」と振り仮名がついている。
 心脳とは、どういうことか? //心脳という概念は、認知神経学に基づくもので、「人間の心とは脳が活動することである」という脳科学的認識を前提にした専門用語です。//p42
 「心はどこにあるか?」は、誰にとっても自明ではなく、──脳の活動として心が生じる──を冷静に理解している人は多くない。

 人間の感情が脳のどの部分で発生するかを、脳科学はつきとめるようになった。本人が「意識できる感情」以外に「無意識に働いてしまう感情」もある。意思でコントロールできる感情と、コントロールできない感情があるという
 そこで、記憶を幼少の何歳ぐらいまで遡って思い出せるか?
 著者の小森陽一は、胎児が産まれる瞬間について、とてもユニークな説明をしている。
 //胎児はある日突然、子宮から産道に押し出されます。逆子でない場合には、まず頭から産道に入るわけですから、頭の骨がきしむような初めての痛みを胎児は体験することになります。そして全身の骨格をきしませる痛みへ。やはり初めての痛みによる「不快」の体験です。//p97
 このパニックから解放された第一声が、産声だ、という。
 母親の「産みの苦しみ」だけでなく、生まれてくる子どもには「生まれ出づる苦しみ」がある、ということだ。
 これは著者の創作ではなく、脳科学から導き出されているという。

 苦しみは「不快」の体験。人生は「不快」から始まるのだ。
 胎内で羊水にプカプカ浮かんでいたときは「快」の状態で、「生まれ出づる苦しみ」ののち母親に抱かれるのもまた「快」の状態。
 //産声を上げて以後、新生児は、空腹になったとき、排尿あるいは排便をしたときに「オギャー」と泣いて「不快」であることを周囲の大人に伝えます。//p100頁
 このように「快・不快」をあかちゃんは繰り返す。
 「快・不快」の発生を脳科学で説明すると次のようになる。
 //前頭前野を有する新皮質としての大脳皮質ではなく、旧皮質と言われ、「動物の脳」として位置づけられる大脳辺縁系で発生するのです。//p26
 「快・不快」の気分感情に対応する行動「攻撃する・逃げる」は、すべての動物にそなわり、人間のあかちゃんも動物として生まれてくるということだ。
 その動物的あかちゃんは、2歳半以後、「人間の脳」を持ち始めるようになる。そのとき特徴的に使われる幼児の言葉が「なぜ?」だ。

 さて、さきほど、「記憶を幼少の何歳ぐらいまで遡って思い出せるか?」と質問した。
 記憶を2歳半まで遡れるだろうか? 忘れ去って思い出せない記憶を「潜在記憶」と言う。いよいよメインテーマに入ってゆく。潜在記憶までもコントロールされている社会が到来している、という。
 潜在記憶を操作して、「なぜ?」という「人間の脳」を停止させ、「快・不快」だけで判断させよう、というたくらみだそうだ。
 心脳の操作は、マーケティング理論として発展してきている。だから、誰かが「得をする」ようになっているわけで、対として「損をする」人が必ずいることになる。
 得をした人たちの例として、アメリカのブッシュ政権、そして、日本の小泉首相陣営がとりあげられている。
 //フランク・ライツなどが開発した、大衆的「心脳」操作の手法は、この国の現実政治の中でもすでに使用されています。//p128
 昨年(2005年)9月11日投票の衆議院議員選挙で、与党が議席の3分の2以上を占めるという結果になった。小泉首相に託され選挙の広報を取りしきった自民党の世耕弘成参議院議員は、自身の広報戦略の勝利を自著等で誇っている。
 与党の勝利は有権者の選択だという発言をよく聞かされるが、
 //有権者の「人間の脳」が停止させられ、「動物の脳」におとしめられたのです。//p159
 見方を変えれば、だまされる人たちが、それだけ多い、という現実を認めざるを得ない。
 マーケッティング理論は、戦争という国家総動員体制をも遂行させる恐ろしい研究だ。小森陽一は日本近代文学研究者であり文芸評論家。彼の研究で、文学や言語の基礎をなす領域はマーケッティング理論にも応用される。「快・不快」の要素を抽出し、だましのテクニックに使われてしまうのだ。そういう研究者としての責任・良心がこの本を書かせている、ともいえる。

 有権者の多くが「動物の脳」に誘導される──この恐ろしい戦術は現実に存在する。
 では、どうすれば「人間の脳」で一票を投ずることができるのか?
 「快・不快」という二項対立だけで物事を考えたり判断するのでなく、2歳半以後に訪れる「なぜ?」という理由を言葉で問う能力を持つことだ、と著者は訴えている。
 「なぜ?」と考える行為は、その習慣のない人たちにとって簡単なことではないが、では、2歳半から人間は進歩していない──ということになるのか? マーケッティング理論による心脳コントロールが、テレビや新聞などマス・メディアを通じて絶えず垂れ流されている。
 それらに誘導されないよう、常に「なぜ?」という疑問を持ち続けることが大切なのだ。「なぜ?」と考えることは、新皮質の前頭前野を鍛え「人間の脳」を育てる。
 //マス・メディアや政治プロパガンダが垂れ流す情報を決してそのまま鵜呑みにしないことが一番大切です。//p20
 マス・メディアや政治プロパガンダがどのようにして情報を流してくるのかは、本書にその一端が示されている。今はそういう「心脳コントロール社会」なのだということを、よく認識しておいたほうがいいようだ。

2006.7.22記す/2022.7.3再録・加筆

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