- 鷲田清一『大事なものは見えにくい』
- 角川ソフィア文庫 2012年 p35より全文転記
死の経験
思いびとの死:と副題をつけてみた(山田利行)
「死んだら死にっきり」と、ひとは言う。死にいろいろ意味づけをするのは生きているあいだ、つまり死ぬ前である。また、死ぬとはそもそも経験や記憶が不可能になることだから、死の経験というものもありえない。その意味で、死はいつも不在のものであり、いつも思うだけのものであり、最後まで経験できないものであり、つまりそれはどこまでも経験の彼方にある。経験の消失のなかでひとも消えてゆく……。そう、ひとは死んだら死にっきりである。
が、これまたあたりまえのことだが、わたしは独りで棺桶に入ることはできない。湯灌や死亡届や葬儀など死後の措置もじぶんではできない。わたしの死は、わたしの意とはかかわりなく、少なからぬ他のひとたちをいやでも引きずり込む。これまた言わずもがなのことだ。
それだけではない。わたしが生前、いかに取るに足りない存在であったとしても、わたしの死はたぶん、わたし以外のだれかにとって、たとえごくごく小さくとも、やはりなにがしかの意味はもつはずだ。「ばかなやつだった」「なさけないやつだった」というような、否定的な意味あいであっても。だから、わたしの死がいかなる他者にとってもひとつの事件になりえないのだとしたら、わたしは生きているときからすでに死んでいると言ってもいい。
そう考えると、「死んだら死にっきり」という物言いはとても自己中心的な物言いであり、わたしが死んだら別のだれかが、深い喪失体験とまでは言わないにしても、すくなくともわたしの死後の処置を引き受けなければならないというごくごくあたりまえの事実への配慮を欠いた、手前勝手な考えとしか言いようがない。
だから死について考えるときは、だれかの死とはひとびとのあいだで起こる出来事であるという、そういう地点から考えはじめる必要がある。
〈わたし〉の存在は、だれかある他者の宛先となることではじめてなりたってきた。〈わたし〉の存在とは、だれかの思いの宛先であるということ、ヘーゲルやキェルケゴールといった哲学者の言葉を借りれば、「他者の他者」であるということだ。わたし以外のだれかの他者であることによってはじめて、いいかえると、だれかある他者に「あなた」「おまえ」と名指されることによって、わたしたちはひとりの〈わたし〉になる。だから、死というかたちでの、わたしにとっての二人称の他者の喪失とは、「他者の他者」たるわたしの喪失にほかならない。
二十年以上も前のことになるが、わたしの母が死んだときに、ドイツ人の恩師は「家族の死は自己自身の一部の死です」という言葉を、海の向こうから書き贈ってくださった。二人称でかかわりあってきた他者の死は、その意味で、わたし自身の一部が壊れる、喪われるということなのだと、恩師は語りかけてくださった。
これを逆転すると、わたしの死も、「死んだら死にっきり」ではなく、だれかある他者のなかになにがしかの死をもたらしているはずだということになる。わたしもまた「あなた」「おまえ」と呼びかける他者をもっていたかぎりで。
そうすると、ひとがほんとうに経験できる死というのは、自己の死ではなく、他者の死であると言えそうだ。知らないひとの死は、死の情報であっても死の経験ではない。死の経験というのは、じぶんを思いの宛先としてくれていた他者がいなくなるということの経験、そう、喪失の経験なのだ、と。
わたしをその思いの宛先としていた二人称の他者の死は、わたしのなかにある空白をつくりだす。以後、わたしの思いはいつも「宛先不明」の付箋をつけて戻ってくるしかない。その意味で、そのときわたしもまた、死んでしまう……。この意味で、死の経験は「二人称の死」を基本とする。
以上。太字や下線は転記の際に付した。
2022.9.19記す