||||| 鷲田清一「納得」(抄)|||

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  • 鷲田清一『大事なものは見えにくい』
    • 角川ソフィア文庫 2012年 p13

納得

納得は時間の関数:と副題をつけてみた(山田利行)

 人生、いつの日に、納得がゆくようになるのだろうか。
 哲学を三十年もやっているのに、たしかなことはなにも分かっていない。一つ分かると、その分かり方がほかに波及し、すべてを理解しなおさなければならなくなる。そうしてじぶんと世界を見る眼全体が変わってゆく。そのあいだにはもちろん抵抗もある。だから理解はジグザグに進んでゆく。理解とは時間のなかの出来事であって、だから、あのときは分からなかったけれどいまだったら分かるということも起こる。
 二十歳の頃、「哲学とはおのれ自身の端緒がたえず更新されてゆく経験である」という、メルロ=ポンティの言葉にふれて哲学の勉強を始めることになったので、人生分からないことだらけになっても、うきうきこそすれ、落ち込むということはない。哲学はその誕生以来、分かることよりも分からないことを知ることの大切さを教えてきた。分からないけれどこれは大事ということを知ること、そのことが重要なのだ、と。哲学はその意味で、ものごとの理由を、最終的に知りえなくとも「納得」はしたいという欲望のなせる業なのかもしれない。
 わたしたちが生きるうえでほんとうに大事なことは、なかなか分からない。いや、大事なことほど分からない。たとえば、ものが在るということの理由、わたしがここにいるということの意味……。身近なものほどむずかしい。ちなみに顔ひとつとっても、それは他人にとってはわたしの存在そのものなのに、よりによって当のわたしだけはそれを見たことがない。どうしてそんな非対象の関係がわたしの存在にとって大きな意味をもっているのだろう。顔というのはいったいどういうものないしは現象なのか……と、考え出したらきりがない。

〈中略〉

 家裁の調停員のひとからおもしろい話を聴いた。双方がそれぞれの言い分をぶつけあったはてに「万策尽きた」「もうあきらめた」と観念したとき、話しあいの途(みち)がかろうじて開ける。訴えあいのプロセス、議論のプロセスが「尽くされて」はじめて開けてくる途がある、というのだ。
 ここで開けてくるのは理解の途ではない。「理解できないけれど納得はできる」とか「なにも解決はないけれど納得はできる」というときの、その納得の途だ。
 納得は、もがき苦しんだ後にしか訪れない。とりわけ家族のあいだのもめ事においては、たがいにとことん言葉をぶつけあい、ののしりあったはてに、相手がじぶんと同様、土俵から降りずにおなじ果てしない時間を共有してくれたことそのことにふと思いがおよんだ後にしか、納得は生まれない。そこではともにもがき苦しんだその時間の確認が大きな意味をもつ。
 聴くというのも、話を聴くというより、話そうとして話しきれないその疼(うず)きの時間を聴くということで、相手のそうした聴く姿勢を察知してはじめてひとは口を開く。そのときはもう、聴いてもらえるだけでいいのであって、理解は起こらなくていい。妙に分かられたら逆に腹が立つ。そんなにかんたんに分かられてたまるか、と。
 じぶんの人生に納得するというのも同じで、そういうもがきや苦闘の時間をじぶん相手に確認できるかどうかにかかっているようにおもう。

──終──
2022.9.19記す

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