||||| 超知覚性心像(山鳥重)と「体験」|||

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山鳥重『心は何でできているのか』角川書店 2011年
p150 小見出し //「バナナを見た」はいかにして成り立っているか?//
//次は、これもわたし〔山鳥重〕の勝手な命名ですが、知覚性心像です。
 神経心理学的経験からしますと、われわれの経験するさまざまな知覚性心像は、それぞれの感覚様式に留まっている限り、意味を持たないのではないかと、考えられます。//
※それぞれの感覚様式……五感(山鳥重は六感)のこと。

p151
//もちろん、これは仮説に過ぎませんが、ある対象、バナナならバナナを見た場合を考えてみますと、バナナの視覚心像を立ち上げただけでは、それは単なる視覚性の、意味のないカタチが経験されているだけであって、バナナを見た、というような、バナナの理解は起こらない可能性が高いです。バナナを見て、それをバナナと理解するためには、//
※視覚≠「見た」の意

p151
//バナナを見て、それをバナナと理解するためには、目の前に現れた特定のバナナの形が、バナナについてのさまざまな過去の記憶や、視覚以外の感覚様式が作り上げてきたはずの、バナナについての、非視覚性心像(バナナの手触りの触覚性心像、バナナの舌触り・歯触りの触覚性心像、バナナの味覚性心像、バナナの嗅覚性心像など)が、同時にこころに呼び起こされる必要があります。このような、//
p151
//このような、感覚様式を超えた経験も、漠然とはしていますが、あるカタチを持っています。この視覚や、聴覚などといった、感覚特有の知覚性心像を超えて作り上げられている「心像」が、「超知覚性」心像です。バナナについての過去の経験がすべて重なり、必要な要素だけが抜き出されて作り出される「カタチ」です。この心像は、//
※あるカタチ→必要な要素だけが抜き出されて作り出される「カタチ」
p151
//この心像は、バナナについての経験が凝縮し、昇華されたものです。これは、普通、意味」という言葉で理解されている心理現象です。バナナを眼で見て、こころにバナナの視覚心像を立ち上げ、この視覚心像と、これまでのバナナについての知覚性心像がうまく対応すると、われわれは、見たものがバナナであることを理解できます。この、ある対象についての//

超知覚性心像は、「体験」に通じる

p151
//この、ある対象についての複数の知覚性心像〔※〕が収斂して、感覚様式を超えて作り出される知覚性心像が、その対象に「意味」を与えてくれます。われわれは、対象(客観対象に限ってのことですが)を、感覚を介してしか知覚できませんが、こうした感覚様式限定性の知覚性心像が、知覚性心像とうまく照合された時、対象の意味が分かった、という経験〔※※〕が生じるのです。//
〔※〕複数の知覚性心像……五感(山鳥重は六感)のこと。
〔※※〕経験……即ち、「体験」の意味か?

2022.11.23記す

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