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「子どもたちの昭和史」編集委員会/編集
『写真集 子どもたちの昭和史』大月書店 1984年
++ 第1部 嵐のまえの子どもたち 1918年~
++ 第2部 軍歌をうたう子どもたち
++ 第3部 戦火の中の子どもたち
++ 第4部 焼跡の中の子どもたち
++ 第5部 明日にむかう子どもたち 1952年~
※20世紀は「児童の世紀」だったが、「戦争の世紀」でもあった。本書は「戦争」にテーマを絞っている。
p62 キャプション
//七五三 1941年11月 「産めよ、ふやせよ」で生を受けた子どもたちは、豊かに生きるためにではなくて、国のために死ぬための人的資源として育てられたのです。陸軍に、海軍に、航空隊に、おさない子どもたちが戦士として仕たてられていきます。//
本書の巻頭言
「伝えておきたいのです 私たちの子どもののころのことを」
松谷みよ子
//女のひとは年齢(とし)をたいてい避けるのです。私だってナイショにしておきたいのですが、この「子どもたちの昭和史」にかかわるためには、やっぱり年齢の話をしなくてはなりません。
じつは私は、大正15年2月の生まれです。その同じ年、西暦でいうなら1926年12月、大正天皇が亡くなり、同時に年号は昭和とあらためられました。
私の一生は、ですから、昭和とともに歩んできたようなものです。そしてこの、昭和という時代は、日本の歴史のなかでもいちばん激しく揺れうごき、変化した時代ではないでしょうか。このことを、かたちあるものとして伝えたい、そうした願いから、この写真集は生まれました。
いうまでもないことですが、歴史の本はたくさんあります。写真による歴史の本も、これまたたくさん出版されています。しかし、いつも時代の巻き添えになりながらその存在を無視されてきた子どもは、ここでもまた、ないがしろにされてきたのです。写真によるこの「子どもたちの昭和史」は、その部分へ当てたスポットなのです。
それにしても、一枚の写真は、なんと説得力のあるものなのでしょう。昭和とともに生きてきた私は、一場面、一場面に、ゆすぶられるように、メリンスの着物をきて下駄を鳴らして遊んだ幼い日のこと、ヘイタイサンヨ、アリガトウ、とうたった日のこと、日の丸の旗を打ち振って、バンザーイ、バンザーイと出征兵士を送った日のこと、千人針を縫ったこと、軍需工場に動員されて鉄砲の弾丸(たま)を百個ずつ数えさせられたこと、食べるものがなくて、小麦粉をといて焼いただけの薄い小さな一枚を家族四人が分けて食べたこと、毎日空襲がつづき、靴をはいたまま寝たこと、シャツやブラウス、髪の毛にしらみがたかり、電車の腰掛けにもはいまわっていたこと、買い出しで大根をしょったまま、艦載機の機銃掃射を浴びたこと……そうしたすべてのことが、フィルムをまわすようにつぎつぎに浮かんできたのです。
そうです。昭和というのは激動の時代は、子どもだからといって容赦してはくれなかったのです。
そして、苦しい戦後の時代をへたいま、私はもう50代の半ばをすでにすぎました。いま、という時代に生きている子どもたちは、あの苦しい時代を知りません。ふたたび、貧しさや飢え、戦争の時代を子どもたちにくりかえさせたくないというのが、昭和を生きたおとなの願いです。
しかし、どれほど言葉をつくしても、それはなかなか伝えることができませんでした。でもおとなたちは伝えたいのです。文学に、歌に、絵に、演劇に、私たちはあの時代を語りつぎたいと念じてきました。
そしてここに、この写真集が生まれたのです。一枚の写真は百の言葉にまさる証言として子どもたちの心に、若い人たちの心に、きっと語りかけてくれることでしょう。
人間が人間らしく生きることは、戦争のなかでは、苦しいことでした。ほんとうのことをいうと、牢屋につながれ、殺されもしました。いま、豊かな、ありあまる物資の洪水のなかで、人間が人間らしく生きようとすることは、それはそれで、むずかしいことでしょう。成績や偏差値でしばられることも、つらいことでしょう。
しかし、いまは、まだ、真実を言葉にすることができる時代です。どうか、いま、という時代をたいせつに生きてください。未来を創りだしてください。その願いをこめて、昭和という時代を、だから知ってほしいと、たくさんの方がたの力で、この写真集は生まれました。どうか、ひもといてください。みつめてください。//
『昭和の子どもたち 5 季節の祭りと行事』(学習研究社 1986年)
作文:「おばあさんからきいた むかしの正月」長崎県・厳原金田小学校4年 永島国夫 昭和35(1960)年
p36
//ぼくのおばあさんは、77歳ですが、とても元気です。
おばあさんが、ぼくぐらいの年には、もう山や田んぼで働いていたそうです。ぼくはよく、おばあさんから、しかられます。
「今の子どもは、遊んでばかりいて、なにもしやせん」と、いわれます。
きょうは、おばあさんから、むかしの正月の話をききました。
おばあさんがこどものときはまい日働いていたので、正月のくるのが、とてもうれしかったそうです。
正月になると、一日じゅう遊んでも、おこられないし、正月の三日には、うじ神様でさかなもらいがあったそうです。夕方あるのに昼まえから、子どもがみんなあつまって、むろはじきや、じんとりや、かくれんぼなどして遊んで、夕方さかな一切れもらって、子どもたちみんなで、一キロぐらいの山道をくらくなって帰ったそうです。
また、15日には、「ナロードモシ(なろうともうす)」というのがあったそうです。直けい五センチぐらいのまる太にいろいろなもようをつけたぼうで、なしや、かきなどのくだものの木のねもとを朝早く、「ナロードモシ(なろうともうす)、ナルメードモシ(なるまいともうす)、ナラザラ(ならんなら)、ネッコカラホシガラホーニキッテクリョ(ないようにきってやるぞ)、ナリマショー(なりなさいよ)、ナリマショー(なりなさいよ)」と家の木や近所の木をたたいてまわって、もちやおかしをもらったそうです。
また12日には、かしねのうじ神様で、「ケエカスリ(かゆたべ)」というのがあったそうです。その日も、みんなお客にあつまって、おかゆをたくさんたべたほうがじょうぶになるというので、みんな、きょうそうで何十ぱいもたべたそうです。ぼくは正月には、お年玉や、おこづかいをもらって、おかしを食べたり、おもちゃであそんだり、ともだちとパッチンをしてあそばれるので、今の子どもの方がしあわせだと思います。//
2020.4.23記す