||||| 本田和子『ところで軍国少女はどこへ行った』読書メモ |||

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本田和子 ほんだ・ますこ
『ところで軍国少女はどこへ行った』
+ ななみ書房2019年

p1
//私は、自叙伝風のものを文章化することを好まなかった。「生い立ちの記」などは、決して本にすまいと思い定めていたのである。//

 本田和子、2023年2月12日死去
 よくぞ書き残してくれたものと思う。1931年生まれなので執筆当時は90歳を超えていたであろう。他の書きものと同様、”評価(論評)”につながる書き方をしていない。尾を引かない。反戦や平和を論じるようなものでない。自身の少女時代、小学生から中学生の身辺に起きたことを記憶で書きおこしている。
 1937年頃から1945年敗戦までの8年あるいは敗戦後のようすが、極めて浮かび上がる。彼女は、20世紀を「児童の世紀」だったか?と問いかけ、『子ども100年のエポック』で著している。戦争の世紀でもあったことを自身の証言で示している。

p75
//戦時歌謡は、「音楽を動員せよ」という戦時体制の中で生まれた。そして、一番早く、一番巧みに、動員されてしまったのは、子どもたちであった。//

p83
//当時の子どもたちは、大正童心主義の童謡にまして、戦時歌謡のほうが心に叶ったのかも知れない。
 教師の選んだ歌を、格別きれいだとも、私たちの世界だとも思わず、ただ唱歌祭のためだけに「歌った」というより「歌わされた」。//

p109
//当時の小学生には、戦死者の遺骨の出迎えが課せられていた。小学生の戦争参加である。白木の箱を抱えた喪服姿の妻らしい人と、無邪気に後をついてくる黒服の子ども、痛ましくも神々しい光景だと思った。そして「お母さんも、遺族にしてあげるからね」と言ったとかいう小学生が話題になったが、当時の小学生としては、そんな心境でもあったのだ。だから、心をこめて歌った。「父よ、あなたは強かった」と……。//

p123
//遊んでいる子ども自身は、自分の遊びが何かを意味しているなどとは知る由もなく、また、つきつめて知ろうともせず、ただ面白さに駆られて、あるいは約束事の通りに、ただ、ひたすら、遊びに遊ぶ。しかし、その姿を、たまたま見かけた人々の記憶の底に、しっかりと貯えられ、ふとしたはずみに思い出される。「これは、どこで、いつ見た光景なのだろうか」「この姿のあれこれは、いつ、記憶の底にしのびこんだのだろうか。」
 答えは得られないままに、ただその言動を懐かしいと見て、再び、記憶の底に焼き付ける。しかし、彼らはこの時、気付いているだろうか、自分たちが「子ども遊び」を「拡散し続けて」いることに、そして、その源は、何も知らず、何に気付くこともなく、ただ面白く遊んでいるだけで、昔ながらの身振りや歌などを「拡散している自分たちの役割」を。
 自覚することなく、重責を感じることもなく、伝承し、拡散している「自分たちについて」。さらに言うなら、自分たちに手渡された「古くからの遊びに」ついてである。
 そして、同時に、それらの遊びを戦時歌謡との余りにもよくヒットし得ることに、驚かされることにしきりであろう。何しろ、「一匁のイー助さん」にまして、「金鵄輝く日本の」とか、「お一つおろしてオーサラー」より以上に、「勝ってくるぞと勇ましく」の方がよりフィットすることに、驚くのである。
 何一つ傷つきもせず、自覚することもなく、ただ面白さに駆られて遊ぶ子どもたちの姿に、気づかされることの多さに、今さらながら驚かされるのである。//

p127
//戦争末期に、ラジオから流れ、子どもたちもよく歌った歌に、「勝ち抜く僕ら少国民」というのがあった。子どもたちは、当時、「少国民」と呼ばれていたのである。
 勝ち抜く僕ら少国民
 天皇陛下の御為に
 死ねと教えた父母の
 赤い血潮を受け継いで
 心に決死の白襷
 かけて勇んで突撃だ//
p128
//私の母は言うだろうか、「天皇陛下のために死ね」と……。言いそうであるが、すぐに後悔して取り消すのではないか。「死ぬのは大人になってからでよい」と……。私は、毅然として「死ね」と教える父母に、いささかならぬ違和感があった。//

p131
//「学童疎開」とは、子どもを守るかに見えて、子どもにとっては、この上なく悲惨な政策ではないか。//

p134
//子どもたちは、次々と送り出される戦時歌謡を次々と覚え、それを歌って遊んだ。「毬つき歌」として、あるいは、「お手玉歌」として……。//

p153
//「空襲警報」の合図と共に、庭先に掘られた防空壕に駆け込んだ私は、手を繋いだ妹が小きざみに震えているのに気づいた。//……//別に深い意味はなかったが、震えている妹を、何とか励まそうと思ったからである。しかし、妹は歌わず、ただ震えていた。//

p156
//近所の子どもとは余り遊ばなかったが、いとこ達とは「人形遊び」に興じた。貰い物の人形やら、手作りの人形やら、大小取り揃えて「人形一家」を構成し、日常の再現に精を出した。しかし、人形一家に戦争の影はなく、誰も出征もしなかったし、戦争もしなかった。国家が学校教育を統制し、学校が子どもたちを一定方向に訓練したとして、優等生の「私」はその中で何の矛盾も感じなかったが、しかし、「人形遊び」には、戦争の影を落としていない。今考えて、不思議に思う。「子ども」というものは、余程、したたかに出来ているらしい。//

p156
//私は「和子」と書いて「マスコ」と読む自分の名前が嫌いではなかった。人並みではなく、容易に正しく読めない名前だったからである。//

p166
//この戦争には、「勝つか」「負けるか」しか、終わり方はないのだなどとは、考えもしなかったのである。私は、何しろ、立派な「軍国少女」だったし、戦争の終わり方など、「日本が勝利する」とだけしか考えていなかったのである。
 ピカピカの「軍国少女」が、いつどうやって「普通の女性」に戻ったのかと、問われることがあるが私には答えられない。//

p168
//戦争の罪悪とか、子どもが一番の被害者であるなど、「戦争」について考えたのは、ずっと後の話。//

p172
//アメリカの研究者のものは、私には余り面白いとは思えなかったが、心理学や教育学の論文とはこんなものかと思った。小さい子どもの研究は、もっと面白くて、ワクワクするようなものかと思っていたのだけれど……。
 戦後の日本には、戦勝国アメリカの論文しか入ってこなかったのかも知れない。だからというわけでもないが、心理学的アプローチは私には向かないと思うようになった。現在の私の研究傾向は、こうして、「心理学的アプローチはつまらない」と、思い定めたことに負うているのかも知れない。//

2023.9.10記す

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