||||| 子どもの発見:朝日カルチャー叢書 |||

Home > 書庫

本田和子「子どものおそろしさ」p7~48

p33
//子どもが食事をしなくても、八時に寝なくても、髪が汚れていても大したことはないのに、大人はそれを「本当にうちの子は困ったものだ」と過度に評価します。幼い子どものそれっぽっちの表現が、大人には実際の事柄以上に暴力的な反抗と映るのです。そのように映る理由は、大人の心のどこかに、子どもは決して敵ではないと思い込んでいる部分があるからではないでしょうか。「子どもと大人は運命的に敵対関係を結ばざるを得ないのだ」「敵として対峙しなければならないこともあるのだ」と思っていれば、些細な敵対行動など可愛いものです。//
p34
//親には、もしかすると教師にも、自分がいまやることはすべて子どものためなのだという思い込みがあります。ですから、子どもが自分の思うようにならないことは、大人には裏切りとしか思えないのです。現実に相手をしている子どもの体が大きくなり、力もついてくると、本当に暴力を振うようになります。自分と子どもは味方として共同戦線を張っていたとの思い込みが破られるだけでなく狼狽も大きく、そこで必死になって自分の側の防衛ラインを強くするのです。自分の側の防衛ラインを強化するのに即して、先方もますます強化します。それにつれて、両者の関係は旧に倍して尖鋭化していくことにもなりかねないのではないでしょうか。//
p34
//大人と子どもとは、全面的に一致し、徹底した味方の関係を組み得ないことを認識することで、両者の関係はもしかしたら変わってくるかもしれません。暴力的童児神の神話解釈を、現実の問題に照らして私たちが学ぶことができるのは、そのような教訓でしょう。//
童児神……p19//神話の世界には、大変暴力的な童児神〔日本も加えた世界で〕が数多く登場します。// 加えて、絵本『もじゃもじゃペーター』を例に学んでいる。
p27
//先の話に出た神様たちが捨て子であったことにも、ユングは一つの意味を見出すわけです。捨て子であったということは、親と縁がないということです。親とか大人は、既にいままでの価値の蓄積に寄り掛かっている存在です。そういうものと縁がないということは、それまでのいずれのものとも全く関係のない、完全に新しい創造的な内容である、ということになるのではないでしょうか。そういうものの象徴として、捨て子を捉えることができます。すると、そこに生まれ出た解決法、結論はあまりにも新しすぎて人間にはよくわからない、意識の世界では十分に理解することができない内容物である、ということになります。//

p36 理性という名の計算
//バタイユは次のように続けます。
 「人々が理性と呼んでいるものは計算にすぎない。ただし、そのような計算をしなければ、社会秩序は維持できない。人間社会は一度立てた秩序を崩したくないために、絶えずそれを守るための計算をしている。それを一応理性などと呼んでいるのだ。そのような計算をすれば、ヒースクリフとキャシーが結婚するのはやはり損なことであって、決して得ではない。だから、〈将来のことを考えるなら、ヒースクリフなどを諦めてリントン家へ嫁ぎなさい〉というような有形無形の忠告があって、キャシーは一応それに従おうとしたのだ」
 この”将来のことを考えるなら……”が、まさしく理性という名の計算であるわけです。//
※バタイユ……p35//ジョルジュ・バタイユ、フランスという思想家が、『文学と悪』という評論集の中でこの『嵐ヶ丘』の問題を取り上げて、この作品は子どものまま生きようとした大人の物語であると捉えています。//

p42
//将来の利害損得で教育が出来上がっていることは先述しましたが、利害損得というのは資本の論理です。学校教育は、近代化のプロセスの中で資本の論理と結託してしまったのです。良くも悪くもそうなってしまったのです。日本の場合は、それが特に顕著なようです。日本は後進国でしたから、近代化のプロセスの中で非常に効率のいい教育を志向しました。近代化を早く達成するためには、それに有効に機能するような学校体系を短時間に作り上げなければなりませんでした。そこで利害損得がはっきりと計算されたのです。
 その典型的な現れを明治19年の「中等学校令」に見ることができます。明治の初めにはまだ少し理想的なところがあって、男女の区別なく高等教育を受けさせようという気風がありました。男女の別は、まだあまり強くは唱えられていません。女学校も数多く出現します。しかし「中等学校令」は、明らかに男子だけを念頭に置いた条例となりました。そこには露骨に資本の論理が出てきます。将来、実業家、役人、軍人などになるわけもない女子は教育してもあまり役に立たない、と考えられるようになりました。女子に高等教育を授けても元が取れないという資本の論理が中等教育と結び付いたために、明治の初めに芽生えかけた女学校教育が急速に退潮することになります。かなりの数の公立女学校が閉鎖され、財政難で廃校にならざるを得なかったものもありました。
 やがて、資本主義社会で重要とされる中産階級の担い手として、教養ある女性を創造するために女学校もやはり必要であるとの論理が、明治32年の「高等女学校令」制定の動きにつながりました。当時の国情では資本の論理と教育が結び付くのは已むを得なかったとはいえ、こうして、利害損得を念頭に置いた学校体系が、いままで私たちを搦め取っていたことに気づかなければなりません。いまの学校教育はそのような論理で組み立てられており、決して子どものために作られたものではないという認識があるのとないのとでは、子どもの見方がかなり違ってくるのではないでしょうか。//

p44
//少年院で私が出会った女の子たちも、本当に子どもらしいのです。ツッパって酷いことをしたり、覚醒剤を打ったりして何回も補導され、挙句の果てに少年院のようなところへ連れてこられたのが不思議に思えるくらい可愛い子どもたちです。勉強のよくできるまともな子どもよりも、子ども的なものをたくさんもっているとすらいえそうです。そのような子どもたちが、ツッパリ少女として補導されて少年院に入ってきている現実を見ると、利害を考えることができたか否かの違いが大きいのではないかと考えざるを得ません。//
※「子ども的なもの」とは何か? 「少女」の表現が心象すぎて説得力を欠く。
p45 ※これを受けて……
//「こんな子どもらしい子たちが学校や家庭でうまくついていけなかったのはなぜなのか」
 もちろん、彼らが悪いのではなく、彼らがついていけなくなるような問題が種々あるのでしょう。私は、その一つはスピードではないかと思っています。//
p46
//効率的に動けずぐずぐずしている子どもは、そのスピーディな動きの中からはみ出してしまいます。その結果、外にアイデンティティを求めることになるのではないでしょうか。〈子どもが子どもであろうとするならば、必然的に暴力的であらざるを得ない〉という図式が、ここにも当てはまるかもしれません。//

p47
//子どもと大人の関係が柔軟性を欠いてしまっている結果として、逸脱が目立ってくるのです。子どもの側でも柔軟な対応ができずにとことん逸脱してしまう形になるので、必要以上にそのおそろしさが目立ち、「子どもとはおそろしいものである」「この頃の子どもはほんとにおそろしい」という大人の見方が出てくるのではないでしょうか。そして、子どもがおそろしいのは大変厄介なことではありますが、このおそろしさがなくなったら、もっとおそろしいのではないでしょうか。//

2023.9.15記す

© 2024 ||||| YAMADA,Toshiyuki |||, All rights reserved.