||||| 僕はいくら苦しくても、あんなひもじい思いだけはしたくない。|||

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『写真と作文でつづる 昭和の子どもたち 2 くらしの移り変わり』
+ 学習研究社 1986年
p134 作文:題 //雑炊(ぞうすい)//
八田新太郎 鳥取県・上灘小学校六年

//今思い出すと、なさけないようなひもじい気持ちになってくる。それは、戦争の頃で、まだ僕が小学校に上がる前であった。
 古い木にこけがはえておれそうになっている物置小屋のすみっこに、しわがよってところどころくさりかけているじゃが芋が五つ六つ、底の破れている丸いかごの中にころがっていたのを僕が見つけた。すると、おとうさんが「ほんとかい」と喜びながら、さっそくそのじゃが芋を炊事場に持って行って皮をむき、くされているところは切りすてて厚く切った。そして熱い湯の中に塩を入れ、その中に切った芋を入れて、ポコン シュルン、ポコン シュルンにた。にえると、おとうさんと、にいさんふたりと僕で、四人でその雑炊をたべ始めた。するとおばあさんがどこからか帰ってきて、からっぽになっている丸いかごを見た。そして、びっくりしたような声で「ありゃ」といいながら物置小屋の道具をひっぱり出して芋をさがし始めた。けれど、いくらさがしてもないので、わかったというような顔で僕らの方を見まわした。
 おばあさんは、しばらくの間、ひたいにしわをよせて僕らの方をじっとにらんでいたが、とうとう、じゃが芋をにてたべているのがわかってしまった。そして、「おのれらが、くっとるがなあー」と、たった一本しかない歯で、口びるをかみながら、からっぽのかごを僕らに投げつけた。
 すると、うん悪く、ちょうど僕のたべている茶わんにあたって、雑炊が「ざっ」とこぼれてしまった。それを見たおとうさんは、かんかんにおこって横にあったまだ汁がしたたるような、はがまのふたを持つが早いか「おう」といっておばあさんに投げつけた。
 ガラン、ガラン、ドッシンと、えんがわにふたが落ちた。ぼくは「ちくしょう」と思いながら、雑炊を手ですくってたべた。でも、おばあさんは「へん」といってどこかへ出てしまい、そのまま、おとうさんとおばあさんのけんかは終わってしまった。そして、またみんなが、はがまの雑炊を静かにするするたべ、少しも残らずからっぽにしてしまった。
 ある晩、あまり腹がすいたので、にいさんと次のにいさんと僕と三人で、よその家のそら豆を取りに行った。ころころする土のかたまりのある畑の中をはいまわってモギモギちぎった。暗い中をびりびりふるえながら、風呂場の焼けあとの畑でとったので、セメントに僕の頭をゴッツンとくらわしてしまった。
 ひりひりするひたいをおさえながら、人にわからないように、うらの道をぬき足で歩いて家に帰ると、おとうさんがいっしょうけんめいに七輪に火をおこして「おお取ってきたか」といって待っていた。その時は、おばあさんが泊(とまり)に行っていたので、ちょうどつごうがよかった。
 それから、僕らはそら豆の皮をむき始めた。コリンクリン、コリンクリン、よくむける。むいてしまったら、にるしたくをした。そして、なべに水と塩とそら豆を入れて七輪にかけ、そのぐるりをかこんで、なべを見つめた。まだ少ししか時間がたっていないのに、かわるがわる、一分おきぐらいに、なべのふたをはぐって、ひとつぶずつ食べて見た。とうとう豆もにえたので、いっしょに四人が皿にわけてたべた。舌にとろけるようでとてもうまかった。けれど、あまりにうまくて、くった気がしなかった。
 こんなことを今考えてみると、なさけないような、おそろしいような気持ちになってくる。そして、さつま芋や、かぼちゃのくきを水のようなおかゆに入れてたべたことも思い出されてくる。
 その頃の家の生活は、戦争のため、食べ物がないので、なにもかも売りつくして、それで米にかえていた。それでもまだたりないので、そんなことをしてたべたのだ。でも、今考えてみると、よその家のそら豆をぬすむことは、ほんとうに悪かったと思うけれど、また、その頃はしかたがなかったのだとも考えてみる。
 この間の朝、先生が「また戦争が始まるようになるかもしれない」といわれた。その時は、僕は胸がドキッとして身ぶるいがした。
 そして「またあんな生活をしなければならないかなあー」と小さい時のことを思い出した。戦争が終わってから、今ではだいぶん食べ物がたくさんあるようになった。あの頃は塩さえないので、二里もある遠い海へ塩をくみに行った人があったのも知っている。
 もし、戦争が始まれば、また食べ物が少なくなって、あんなひもじい思いをするようになるかも知れない。僕はいくら苦しくても、あんなひもじい思いだけはしたくない。戦争になると、家が焼けたり人が死んだりするだけではない。食べ物も着物も少なくなり、今よりずっと物が高くなって、苦しい生活をしなければならぬのだ。戦争だけは、ぜったいにやめたい。第一、戦争が好きな者は、この世の中にはひとりもいないと思う。僕らの組にも戦争のために、おとうさんや、にいさんが戦死されて、生活にこまっている者もある。
 僕には、どんなわけで戦争になるかは、まだはっきりわからないが、僕たちは世界中の子供といっしょに手をつないで、おとなの人たちに、ぜったいに戦争させないようにしたいと思う。そして、明るい楽しい平和な国になるようにしたいと考えている。//

※全文。//昭和20年代~30年代// の章に所収。
「おばあさん」との関係が、わからないまま。
「また戦争が……」というのは、朝鮮戦争(1950年)のことか?

2023.10.26記す

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