||||| 宇沢弘文『社会的共通資本』読書メモ |||

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宇沢弘文 うざわ・ひろふみ『社会的共通資本』
+ 岩波新書 2000年

pⅱ
//社会的共通資本は〔1〕自然環境、〔2〕社会的インフラストラクチャー、〔3〕制度資本の三つの大きな範疇にわけて考えることができる。//
〔1〕自然環境……大気・森林・河川・水・土壌など
〔2〕社会的インフラストラクチャー……道路・交通機関・上下水道・電力・ガスなど
〔3〕制度資本……教育・医療・司法・金融制度など

pⅴ //目次//
//序章 ゆたかな社会とは//
※──から始まる。

p2
//ゆたかな社会とは、すべての人々が、その先天的、後天的資質と能力とを充分に生かし、それぞれのもっている夢とアスピレーションが最大限に実現できるような仕事にたずさわり、その私的、社会的貢献に相応しい所得を得て、幸福で、安定的な家庭を営み、できるだけ多様な社会的接触をもち、文化的水準の高い一生をおくることができるような社会である。//
※アスピレーション……熱望・願望・大志

p2 上から続く
//このような社会は、つぎの基本的諸条件をみたしていなければならない。//
※以下、箇条書き。ゆたかな社会の条件
//
(1) 〔自然〕美しい、ゆたかな自然環境が安定的、持続的に維持されている。
(2) 〔居住環境〕快適で、清潔な生活を営むことができるような住居と生活的、文化的環境が用意されている。
(3) 〔教育〕すべての子どもたちが、それぞれのもっている多様な資質と能力をできるだけ伸ばし、発展させ、調和のとれた社会的人間として成長しうる学校教育制度が用意されている。
(4) 〔医療〕疾病、傷害にさいして、そのときどきにおける最高水準の医療サービスを受けることができる。
(5) 〔公共インフラ〕さまざまな稀少資源が、以上の目的を達成するためにもっとも効率的、かつ衡平に配分されるような経済的、社会的制度が整備されている。
//
※(3)は子どもに視点が向けられている。「学校教育」に収斂しているように思える。乳幼児を含めた「遊び」の意義やその視点はここでは認められない。

p5
//社会的共通資本は決して国家の統治機構の一部として官僚的に管理されたり、また利潤追求の対象として市場的な条件によって左右されてはならない。//

p7
//日本の世紀末的混乱と混迷を象徴するのは、学校教育の分野である。//

p8
//人間が人間として生きてゆくためにもっとも大事な存在である大気をはじめとする自然環境という大切な社会的共通資本を、資本主義の国々では、価格のつかない自由財として、自由に利用し、広範にわたって汚染しつづけてきた。また、社会主義の国々でも、独裁的な政治権力のもとで、徹底的に汚染し、破壊しつづけてきたのである。//

p19
//利潤動機が常に、倫理的、社会的、自然的制約条件を超克して、全体として社会の非倫理化を極端に推し進めていったからである。と同時に、投機的動機が生産的動機を支配して、さまざまな社会的、倫理的規制を無効にしてしまう傾向がつよくみられるようになってきた。//

p20
//市民的自由が最大限に保証され、人間的尊厳と職業的倫理が守られ、しかも安定的かつ調和的な経済発展が実現するような理想的な経済制度は存在するであろうか。//

p21
//制度主義の経済制度を特徴づけるのは、社会的共通資本(Social Overhead Capital)と、さまざまな社会的共通資本を管理する社会的組織のあり方とである。//

p22
//社会的共通資本は全体としてみるとき、広い意味での環境を意味する。//

p23
//社会的共通資本の管理、運営は決して、政府によって規定された基準ないしはルール、あるいは市場的基準にしたがっておこなわれるものではない。//

p28
//〔新古典派は〕分配の不公正という側面にまったくふれようとしなかった。//
p30 小見出し//新古典派理論の虚構//
//所得分配の不平等ないし不公正が現実に大きな社会的問題になっているにもかかわらず、その点を看過してしまうということは、もともと経済学が指向した社会的問題意識をはなれてしまうものであることを改めて強調しておきたい。//

p31
//市民の基本的権利という観点からも、居住・職業選択の自由・思想の自由という市民的自由の傍受という自由権の思想からさらに進んで、生存権の考え方が支配的な政治思想になっていった。//

p39
//20世紀における経済学の第一の危機は、1930年代の大恐慌を契機として起きた。この大恐慌によって、新古典派理論は、理論的整合性と現実的妥当性という二つの面から、その信頼性をほとんど完全に失ってしまったが、第一の危機は、ケインズ経済学によって解決された。それから半世紀近くたって、世界の資本主義はふたたび大きな混乱に陥って、不均衡と不安定の時代を迎え、ケインズ経済学はその有効性を失ってしまった〔経済学の第二の危機〕。//

p41
//私はかつて、歴史の捻転という表現を用いて、その特徴を浮き彫りにしたことがある。1970年代から80年代の半ば頃までにかけての経済学の研究の方向は一言でいってしまうと、反ケインズ経済学と呼ばれるべきものであって、ケインズ以前の新古典派経済学の考え方がよりいっそう極端な形で展開されたものであった。//
※いわゆる新自由主義経済のことか?
p42
//反ケインズ経済学は必然的に、政府の経済的機能にかんしてきわめて制約的な性格を求めることになった。//
p43
//アメリカのレーガン大統領、イギリスのサッチャー首相、日本の中曽根首相という政治的指導者たちが、新保守主義の旗をかかげて、いわゆる民間活力ができるだけ有効に働くような制度改革を求めていったのも必ずしも偶然的な現象ではなく、このような経済思想的背景をもっていた。中央集権的な配分機構がもたらす非効率性、反社会性を強調して、その政治的、経済的インプリケーションを重要視し、すべての稀少資源を可能なかぎり私的な管理ないし所有にまかせることによって、分権的市場経済制度のもつメリットができるだけ効果的に生かせるような制度を求めようとしたのであった。//
p43
//社会的共通資本の考え方は、このような歴史の捻転をなんとか是正して、より人間的な、より住みやすい社会をつくるためにどうしたらよいか、という問題を経済学の原点に返って考えようという意図のもとにつくり出されたものである。//
※この文で「第1章 社会的共通資本の考え方」を終えている。
第2章 農業と農村
第3章 都市を考える
第4章 学校教育を考える
第5章 社会的共通資本としての医療
第6章 社会的共通資本としての金融制度
第7章 地球環境(※最終章)

2024.3.7記す

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