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レヴィ=ストロース『野生の思考』を読む(中沢新一)

クロード・レヴィ=ストロース『野生の思考』
+ 大橋保夫:訳
+ みすず書房 1976年

p1
//動植物の種や変種の名を詳細に書き出すために必要な単語はすべて揃っているにもかかわらず、「樹木」とか「動物」というような概念を表現する用語をもたない言語のことは、昔から好んで話の種にされてきた。//
※本書は、これが書き出しである。──赤・黄・緑・青、これらの集まりを何というか? 「色」と答えればいいわけだ。個別それぞれ名称を総じていう概念のことだ。個別に名称はあるだろうと思いながらも、日用で必要がないものについては個別の名称を知らないことが当たり前に多くある。むしろ承知している名称は限られている。不承知を含めてそのカテゴリー名称については概ね知っているつもりだ(とはいえ、この「概念」も怪しいが……)。これに比較して未開人はどうか? わたしは、そういうことを考えたことがなかった! この書き出し以降、記述がある。(現代社会と同様であるらしいことが述べられている)

p12
//動植物種に関する知識がその有用性に従ってきまるのではなくて、知識がさきにあればこそ、有用ないし有益という判定が出てくるのである。//
p12
//〔直上を受けて〕第一の目的は実用性ではないのである。このような知識は、物的欲求を充足させるに先立って、もしくは物的欲求を充足させるものではなくて、知的要求に答えるものなのである。//

p14
//呪術的思考とは、「因果律の主題による巨大な変奏曲」なのであって、それが科学と異なる点は、因果性についての無知ないしはその軽視ではなく、むしろ逆に、呪術的思考において因果性追究の欲求がより激しく強硬なことであって、科学の方からは、せいぜいそれを行きすぎとか性急とか呼びうるにすぎないのではなかろうか?//

 何かでヒントを得たのだろう。その典拠は記憶にないが、創作物語「せっけん」にあるように、未開社会で「せっけん」が発明されたということになるか?

p18
//土器、織布、農耕、動物の家畜化という、文明を作る重要な諸技術を人類がものにしたのは新石器時代である。今日ではもはや、これらの偉大な成果が偶然の発見偶然の集積であると考えたり、ある種の自然現象を受動的に見ているだけでみつかったものだとする人はあるまい。//

p20
//この謎には答が一つしかない。科学的思考には二つの様式が区別される。それらは人間精神の発達段階の違いに対応するものではなくて、科学的認識が自然を攻略する際の作戦上のレベルの違いに応ずるもので、一方はおおよそのところ知覚および想像力のレベルにねらいをつけ、他方はそれをはずしているのである。//
p22
//精密科学自然科学より一万年も前に確立したその成果は、依然としていまのわれわれの文明の基層をなしているのである。//

p22
//原始的科学というより「第一」科学と名づけたい//
p22
//それはフランス語でふつう「ブリコラージュ」bricolage(器用仕事)と呼ばれる仕事である。//
p22
//〔略〕というように、いずれも非本来的な偶発運動を指した。今日でもやはり、ブリコルール bricoleur(器用人)とは、くろうととはちがって、ありあわせの道具材料を用いて自分の手でものを作る人のことをいう。ところで、神話的思考の本性は、雑多な要素からなり、かつたくさんあるとはいってもやはり限度のある材料を用いて自分の考えを表現することである。何をする場合であっても、神話的思考はこの材料を使わなければならない。手もとには他に何もないのだから。したがって神話的思考とは、いわば一種の知的な器用仕事(ブリコラージュ)である。これで両者の関係が説明できる。//
※両者……ものをつくる人(器用仕事)×神話的思考(知的な器用仕事)

p24
//比喩(イマージュ)(心像)と概念のあいだには媒体が存在する。それは記号である。言語記号という特定の種類の記号についてソスュール〔ソシュール〕が考え出した定義のしかたを一般化して、記号とは心像(イマージュ)と概念の結合であると定義できるからである。こうして結合が成立すれば、その中で心像概念はそれぞれ「能記」と「所記」の役割を演ずることになる。//
※心像/能記……かたち
※概念/所記……いみ
p25
//エンジニアはつねに通路を開いてその向うに越えようとするのに、器用人(ブリコルール)は、好んでにせよやむをえずにせよ、その手前にとどまる。言いかえれば、技師が概念を用いて作業を行なうに対して、器用人(ブリコルール)は記号を用いるということになる。自然と文化の対立の軸上において、彼らの用いるこれら両集合(概念の全体と記号の全体)にはずれがあり、その差は感知できるほど大きい。記号と概念の対立点のうちの少くとも一つは、概念が現実に対して全的に透明であろうとするのに対し、記号の方はこの現実の中に人間性がある厚味をもって入り込んでくることを容認し、さらにはそれを要求することさえあるという所ににある。厳密にして翻訳困難なパースの表現を借りれば、’It addresses somebody.’ である。//
p27
//それは、同じ材料を使って行なうこのたゆまぬ再構成の作業の中では、前には目的であったものがつねにつぎには手段の役にまわされることである。すなわち、所記が能記に、能記が所記にかわるのである。//

p28
//神話的思考は器用人(ブリコルール)であって、出来事、いやむしろ出来事の残片〔※〕を組み合わせて構造を作り上げるが、科学は、創始されたという事実だけで動き出し、自ら絶えまなく製造している構造、すなわち仮説と理論を使って、出来事という形で自らの手段や成果を作り出してゆく。//
※残片……(p28)//器用仕事(ブリコラージュ)はまた「二次的」性質を用いて仕事をする。英語の《second hand》「中古」を考えあわせてみよ。//

p29
//美術が科学的認識と神話的呪術的思考の中間にはいることを簡単に述べておいてもよいだろう。//……//美術家は科学者と器用人(ブリコルール)の両面をもっている。職人的手段を用いて彼はある物体(オブジェ)を作り上げるが、それは同時に認識の対象(オブジェ)でもある。//……//科学者と器用人(ブリコルール)の相違は、手段と目的に関して、出来事と構造に与える機能が逆になることである。科学者が構造を用いて出来事を作る(世界を変える)のに対し、器用人(ブリコルール)は出来事を用いて構造を作る。〔※〕//
※//こう割り切ってしまうのは不正確な言いかたであるが、//と断りを入れている。
p29
//箱庭やミニカーや壜の中の船のように、器用人(ブリコルール)の用語でいう「模型」なのである。//
p29
//縮減模型はつねに美的目的をもっているようだ//……//美術作品の大多数がまた縮減模型である。//……//システィナ礼拝堂の絵画〔訳注によると、//とくにミケランジェロの『最後の審判』を考えている。//とある〕は、寸法は大きいけれども縮減模型である。なぜなら、そのあらわすテーマが時間の終末なのだから。//
p30
//「実物大」の作品にしたところでかならず縮減がある。すなわち、絵画にしても彫刻にしても、対象のもつ次元をつねにいくつか切りおとす。絵画においては体積を、彫刻においても色、匂、触覚を、さらに両者において時間の次元を──具象作品は、その全体が対象をある一瞬にとらえたものだから。//
p30
//寸法についてであるにせよ、属性についてであるにせよ、それでは縮減にどのような効果があるのだろうか? それは認識過程の転倒にあると思われる。現実の物体を全体的に認識するためには、われわれはつねにまず部分から始める傾向がある。対象がわれわれに向ける抵抗は、それを分割することによって克服される。寸法の縮小はこの状況を逆転させる。小さくなれば、対象の全体はそれほど恐るべきものとは見えなくなる。量的に小さくなることによって、われわれには質的に簡単になったと思われるのである。//
p30
//子供のもつ人形はもはや敵でもライバルでも話し相手でさえもない。人形の中で、また人形によって、人間が主体とかわるのである。現寸大〔※原寸大〕の物ないし人間を認識しようとする場合とは逆に、縮減模型では全体の認識が部分の認識に先立つ。それは幻想にすぎないかもしれないが、そうだとしても、知性や感性に喜びを与えるその幻想を作り出し維持することがこの手法の存在理由である。この喜びは、いま述べたことだけを根拠にしても、すでに美的快感と呼ばれてよいものである。//
p31
//縮減模型の内在的効能とは、失われた感覚の次元を知的次元の獲得で補償することである。//
p31
//科学のやり方が換喩的(メトニミー)であって、あるものを他のものによって、結果を原因によって置き換えるのに対し、美術のやり方は隠喩的(メタフォール)である。//
p32
//科学と器用仕事(ブリコラージュ)では構造と出来事の関係が逆対照的にあらわれるということになると、その点でもまた美術は明らかに中間的位置を占める。//
p32
//美的感動は、人間が、したがってまた潜勢的には鑑賞者が、作り出すものの中におさめられている構造の次元と出来事の次元とのこの結合から生じる。鑑賞者はこの結合の可能性を芸術作品によって発見するのである。//

p33より図示

p34
//出来事とは偶然性の一つの様式でしかなく、その構造への統合(必然的とみなされる)が美的感動を生み出すのである。//……//この偶然性は、美術的創作の異なる三つの相のもとで、言いかえれば異なる三つの時期にあらわれる(それらが重複することもある)。偶然性は機会のレベル、制作のレベル、用途のレベルのどれかに位置する。//

p36
//製作の困難が完全に克服されると(たとえば製作が機械にゆだねられる場合)、用途はますますはっきりし、特定化され、工芸は工業美術となる。逆の場合、われわれはそれを民芸と呼ぶ。さらに、未開美術はプロ美術ないしアカデミックな美術とは正反対の位置にある。専門美術は制作技術(それは思うままになるか、もしくはそう考えられている)および用途(「芸術のための芸術」がそれ自身の目的なのだから)を内在化する。その結果、逆に機会を外在化せざるを得なくなる(モデルに機会の提供をもとめる)。こうして機会は所記の一部となる。それに反し、未開美術は機会を内在化し(なぜならば、未開美術が好んで描く超自然的存在は状況とは無関係の、非時間的な現実であるから)、製作技術と用途を外在化する。製作技術と用途は能記の一部となる。//

p38
//ゲームはすべて規則の集合で規定され、//
※このあと「儀礼」との比較がなされる。「遊び」には「儀礼」に属するような性質があるのだろうか?
※しかしながら、p41//「演技」// 訳注p336 //原語の jeu は「遊び」を意味するが、その範囲は広く、一方では芝居の演技を含み、他方で運動競技の「ゲーム」を指す。儀礼には演技性があるが、ここではそれが同時にゲームになっている。その二重性を示すため括弧に入れられている。//

p38
//フォックス・インディアンの葬礼は、死者を厄介ばらいして、それらが生者の間にいられないことを怨んで生者に復讐しないようにしようという気持から行われるものである。それゆえ現地人の哲学は、はっきり生者の側に立っている。「死はつらい。しかし悲しみはさらにつらい。」//

p54
//「一般的にグワラニ族の命名法はよくできた体系をなしており、ちょっと色をつけて言うなら、われわれの科学的命名法とある種の類似性があると言ってよい。この未開インディアンたちは、自然物の命名をでたらめには行わず、部族の集会を開いて、それぞれの種の性質にもっともよく適った名称を決めていた。その区分、下位区分の立てかたは、きわめて正確であった。……ある土地に住む動物の現地名を書きとどめることは、単に敬意と誠意の行為であるのみならず、科学的義務でもある。」(Dennler, pp. 234, 244.)//

p79
//思考活動には段階があり、思考の手段だったものが知らず知らずのうちに記憶の手段に堕する可能性がある。いわゆるトーテム体系の共時的構造は、通時態の及ぼす働きによって極度に傷つきやすいものであることがわかる。記憶の手段思考の手段より簡単に操作ができる。思考の手段コミュニケーションの手段ほどうるさくはない。//
※「コミュニケーションの手段」は二者(ときには二者以上)の関係だ。ここでいう「思考」や「記憶」は個人に留まるということだろう。

p260
//分類意図は、どちらの方向に向かっても、つねにその極限にまで進みうるものである。その極限をきめるものは、あらゆる分類は対比を二つずつ組み合わせて行われるとする暗黙の公理である。//
p260
//すなわち、対立させることがもはや不可能になったとき、人間ははじめて分類を停止するのである。したがって、この仕組はほんらい挫折を知らない。その内的動力は、分類がどちらの方向に向かうにせよ、その進展にしたがって徐々に減衰する。仕組が停止するのは、動物や事物の経験的属性に由来する思いがけぬ障害のためでもなければ、機構が油切れで止まるためでもない。行くべき所まで行って任務を完全に果たしたからである。//
p261
//極限においては、この作業の意図に合致した単なる二項対立(上と下、右と左、平和と戦争、など)の形をとる。それより先へ進むことは、内的理由によって、無駄でもあるし不可能でもある。//
p261
//それ以外の面で同じ操作を繰り返すことは可能であろう。たとえば社会集団の内部組織がそうで、同じ組織シュマをだんだん多人数の集団に適用してゆけば、いわゆるトーテム的分類によって国際社会の次元にまで拡張することができる。空間時間の面にも、神話地理学によって同じ操作を行いうる。さきに引用したアランダ族の神話が示すように、神話地理学ははてしなく変化に富んだ景観を徐々に整理して組織し、最後はこれまた二項対立(ここでは方向と元素の間の対立である。陸と水との間に対比が位置づけられているのだから)にいたる。//

p262
//私にとって「野生の思考」とは、野蛮人の思考でもなければ未開人類もしくは原始人類の思考でもない。効率を昂めるために栽培種化されたり家畜化された思考とは異なる、野生状態の思考である。//
p263
//野生の思考が、理論的見地からも実際的見地からも、コントがその能力なしとした「継続的関心」に基づくものであるということではないか? 人間が観察し、実験し、分類し、推論するのは、勝手な迷信に刺激されてではない。また偶然の気紛れのせいでもない。文明の諸技術の発見に偶然の作用が一役を演じたとするのが素朴な考えであることは、本書のはじめに見たとおりである。//

p264
//人間は自然と自己との間に類似性を認めてきた。//

p265
//宗教とは自然法則の人間化であり、呪術とは人間行動の自然化──ある種の人間行動を自然界の因果性の一部分をなすものであるが如くに取扱う──であると言うことができるなら、呪術と宗教は二者択一の両項でもなければ、一つの発展過程の二段階でもないことになる。自然の擬人化(宗教の成立基礎)と人間の擬自然化(私はこれで呪術を定義する)とは、つねに与えられている二つの分力であって、その配分だけが変化するのである。//

p295
//第9章 歴史と弁証法//
p295
//私はあえてジャン=ポール・サルトルの用語のいくつかを借用してこの本を書いてきた。それには下ごころがある。これによって、ある一つの問題を読者が自分で考えて下さることを期待したのである。そこで、その問題の検討をもって本書の結論への導入としよう。//

p317
//野生の思考の特性はその非時間性にある。//

2024.6.1記す

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