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レヴィ=ストロース『野生の思考』読書メモ
ソシュールに学ぶ言葉の本質
NHKテキスト100分de名著
+(2016年12月)中沢新一
+ レヴィ=ストロース「野生の思考」
p5
//「野生の思考」は、いわゆる「未開人」と呼ばれた人々の思考について書かれた本でありながら、まさにいま私たちが生きている時代についての本でもあります。//
p6
//私たちの中にはいまだに、19世紀以来の古い形態の思考法が残っています。それは特に政治の領域にみられ、現代の世界に危機をもたらす原因をなしています。//
p7
//19世紀にそうした意味を持った本がマルクスの『資本論』であるならば、20世紀はレヴィ=ストロースの『野生の思考』がそれにあたるのではないでしょうか。//
p11
//サルトルは『弁証法的理性批判』の中で、民族学・人類学そのものに否定的な評価を下します。いわゆる「未開社会」は、歴史の「全体化作用」というものに組み込まれておらず、そこには「分析的理性」しかなく、「弁証法的理性」、すなわち世界を歴史的に動かしていくような思考方法はないと、サルトルは論じました。未開社会は、彼の言葉でいう「実践的惰性態」つまり同じようなことを「習俗」として繰り返しているに過ぎない社会であり、それがたとえ何万年続こうが、そこには歴史がない。「惰性態」を打ち破って、前に進んでいく運動が歴史をつくるのであり、「惰性態」に過ぎない未開社会の人間は「発育不全で畸形」であるとまで書いて、民族学・人類学の研究そのものを認めなかったのです。//
※//分析的理性、弁証法的理性//
//サルトルは、歴史を客観的事象として眺めるだけの〈怠惰な〉理性を「分析的理性」、歴史に実践的に参入してその意味を了解しようとする理性、すなわち〈世界によって己れを構成してゆく〉理性を「弁証法的理性」として、後者の優位を宣言した。//
p11
//そのとき資料としてとりあげたのが、レヴィ=ストロースの『親族の基本構造』や『悲しき熱帯』(1955)などの著作でした。これを読んだレヴィ=ストロースは、おおいに燃えたことでしょう。
そんなこともあって『野生の思考』は民族学・人類学の本でありながら、戦闘的な思想書でもあり、政治的にも哲学的にも深い含意があります。//
p12
//西欧的世界が自分自身の中に自閉して、その自閉的な意識を表現しているものが「歴史」だと考えました。
文化は西欧だけのものではなく、アジアやアフリカ、オセアニア、南北アメリカなどに生きてきたいわゆる「未開社会」にも、人間は文化を形成してきました。//
p12
//習俗的な思考をもとにする「惰性態」を彼らが生きていたからではなく、彼らはむしろみずから選んで、「歴史」の外に出ようとしていた。それは彼らが「歴史」よりも「構造」を重視したからだ。このようにレヴィ=ストロースは考えました。//
p14
//やがてレヴィ=ストロースは哲学へと向かいます。しかし高等中学校(リセ)の哲学級では、空疎な思弁を技巧的にこね回して論じ合う仲間たちの姿に幻滅し、社会主義の政治運動とも関わりながら、自分はいったい何に向いている人間なのかよくわからなくなってしまいました。//
p16
//戦闘らしいものは何もおこりませんでした。塹壕に入ってぼおっと景色を見ていた彼は、目の前のタンポポの花を見つけます。美しい秩序をもったその花を見ているうちに、突然「構造」の考えを思いついたとレヴィ=ストロースはのちに書いています。自然界の秩序と、人間の思考がつくり上げる秩序には連続性があるのではないか、そのことに気づいたのです。//
p16
//宇宙の全体運動の中から地球が生まれ、地球に生命が発生し、生命の中から脳がつくられ、そこに精神が出現するようになります。そしてこの精神には独特の秩序がそなわっています。その秩序は、いまこうしてタンポポの花に実現されている自然界のつくり上げた秩序と連続性をもっているのではないか。しかしそこには両者をへだてている非連続性があることも事実です。この連続性と非連続性を同時にとらえることができないだろうか──。それが、最初の構造主義の着想でした。//
p18
//構造主義とシュルレアリスムは密接な関係にあります。//
※構造主義……//実存主義流行の後にあらわれた現代の思潮。ソシュールの言語理論の影響のもとで諸現象を記号の体系としてとらえ、個別的・歴史的な記述よりも、規則・関係などの共時的な構造分析を重視する。言語学や人類学のほか、心理学・精神医学・数学などの諸分野に広く、多様に展開される。//(『新明解百科語辞典』三省堂)
※シュールレアリスム……//【フランス】理性の支配をしりぞけ、夢や幻想など非合理な潜在意識の世界を表現することによって、人間の全的解放をめざす20世紀の芸術運動。1924年発刊のブルトンの「シュールレアリスム宣言」に始まる。画家のダリ・キリコ・エルシスト、詩人のアラゴン・エリュアール・滝口修造らが有名。超現実主義。//(同)
p27
//フランスの多くの大学教授のスタイルである。あらかじめ用意した原稿を読み上げるやり方ではなく、簡単なメモや資料を手にしながら、半ば即興で思考しながら講義していくのです。//
p28
//自然界の存在(トーテム)//
p46
//「記号」はたえず「ゆらぎ」や「ずれ」をはらんでいるからです。そうなると、また次のものをつくらなければいけなくなります。次のものをつくっても、やはり完成ではありませんから、またつくる。このような形で、どんどん変形を重ねていって、豊かな文化の世界が形成されることになります。//
p59
//鳥と犬と牛と馬では、名前の付け方がおおいに違っています。命名法が違うということは、分類構造での中のカテゴリーの位置付けが違うことを意味しますから、私たちの現代社会でも、先住民と同じような分類を無意識にしていることがわかります。レヴィ=ストロースはこのように、動物に付ける固有名の分類と同じく、先住民のトーテミズムといわれるものも、やはり人類に普遍的な分類形式の変換としてあつかうことができると考えました。//
p59
//「原始の心性」の典型と考えられてきたトーテミズムも、現代の私たちのおこなっている分類や命名の行為とそんなに異なるものではなかった。//
p68
//レヴィ=ストロースは、「神話は、人類最初の哲学である」と語ります。社会をつくっている規則をくつがえすことも辞さない心構えで、人間の本質を考えるのが哲学です。神話はそういう哲学の母なのです。神話はあえて社会の規則を反転したり、否定しながら、この宇宙の中での人間の生の意味を考えます。その意味で神話は人類最初の哲学なのです。//
p69
//神話思考は、この世界が矛盾として成り立っているという認識に立ちます。分類することにより文化がつくられるけれども、それによって自然の全体性は否定され、文化は自然との間に矛盾をはらむことになります。この自然と文化の矛盾は、人間(ホモ・サピエンス)が地上に出現したことから発生した根本的矛盾です。動物たちにはこの矛盾はありません。人間だけが、文化を持つことによって解消不能な矛盾を発生させました。宇宙の中で人間とはいったい何なのか。これは思考に解きがたい謎を突きつけてきました。その矛盾を思考によって乗り越えるものとして神話は生まれました。//
p79
//未開社会の人々の思考は、西欧世界で発達した思考に比べるといまだ未発達の段階にあり、ものごとを分別(弁別)してきちんとした論理によって順序だてて思考するのではなく、とても論理的とは言えない融即にしたがってものごとの階層や順序をごちゃまぜにして、まるで無分別な思考をするという考えが、いかに実態とかけ離れた、偏見にみちたものであるかを、『野生の思考』はあきらかにしました。
人類の思考は、最初から完成されていました。人類が人類となったそのときにつくられた脳の構造を、私たち現代人もいまだに使って思考しているのです。コンピュータはそういう人類の脳によってつくられたものですから、このコンピュータという思考機械も基本設計は「野生の思考」をおこなう脳と少しも変わらないのです。
こうなると、ますますあの「ブリコラージュ」という考え方の重要さが、大きく見えてきます。なぜなら地球上に発生した生命の中に知性が生まれ、それはついには人類の知性にまで発達してきましたが、その進化の過程はすべて地球の内部でおこったもので、外からなにかがやってきたおかげではないからです。生命は自分の手持ちの材料とプログラムだけを用いて、それらの組み合わせを新しくつくりかえることだけによって、進化をなしとげてきました。つまり、生命進化も知性の進化も、すべては「ブリコラージュ」によっているわけです。//
p81
//経済はあいかわらず進歩、成長、発展、拡大などの歴史主義的な思考に無意識に突き動かされており、それと連動している政治家たちの思考も、『野生の思考』以前の状態で足踏みを続けています。//
p83
//私たちはいまだに新石器時代人の末裔であり、その文明も新石器時代におこった飛躍を展開しつづけているにすぎないことを、はっきりと認識しなおす時期がきています。「弁証法的」に新石器時代に立ち戻っていくことのうちにこそ、人類に残されている希望はあるのではないでしょうか。「野生の思考」を研究することは、じつは人類の未来を予見することにほかならない。それが『野生の思考』という本のたどり着いた結論なのだ、と私は考えます。//
p89
//西欧の労働概念には、神によって科せられた「罰」という、ユダヤ=キリスト教特有の考え方が影響しているようです。//
p89
//古代ギリシャ人は、半分は「構造」的な世界に生きていた人たちで、「歴史」の世界が入って変質し始めてはいたものの、未開社会の人々と同じ野生の思考がまだ生き残っていました。その古代ギリシャでは、働くことを「プラクシス」と「ポイエーシス」という二つの言葉で表現していました。
プラクシスというのは、普通「実践」などと訳されますが、古代ギリシャではもともと、行為する人間が自分自身の目的のために事物を「使用する」という意味で用いられました。それに対してポイエーシスには、事物をそれ自体の目的のため、あるいは使用する人の目的のために「つくり出す」という意味があります。例えば、陶器職人や木工職人たちが、何か有用なものをつくる場合、これはプラクシスではなくポイエーシスです。ある物を自分の目的のために変形して使うのではなくて、その物の中にすでに存在する形を外に取り出すと考える。それは、「土や木が望んでいることを実現する」という考え方に近く、いわば自然物の中に隠されている目的を外に取り出して、役に立つ用具にしたてるという作業が職人の仕事であり、ポイエーシスだということになります。//
※【わたしの理解】……畑の土が粘土質のため、この土地を耕しやすいよう、鍬の刃のもとを敢えて太く重くした改良道具に出会ったことがある。鍛冶屋は村ごとにある。土地を知り土地に適合した鍛冶師が村ごとにいるという話は納得がいく。これがポイエーシスということだろう。別な話。手指が不自由な障碍者利便のため、フォークやスプーンを障碍者それぞれの状況にあわせて道具をつくる職人がいる。これもポイエーシスだろう。
2024.5.30記す