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 2014年6月10日の午後、私は、石巻市北部、十三浜(じゅうさんはま)の仮設住宅団地に居た。太平洋の波が陸にあたる。この年の3年3か月前、10メートルを超える津波に遭った。眼下に見える海原から海面が山の中腹までせりあがってきた。漁船が山に突き刺さった。知り合いがいるわけでもなく、付近をさまよっているうちに、山奥の高台にある仮設住宅団地をみつけた。山奥の高台と表現したけれど、眼下は太平洋だ。これがリアス式海岸だ。
 団地の入り口にあった屋根付き集会所前のベンチにおばさんが数人、おじさんが一人いた。そのベンチに私も座った。年寄りの土地の言葉、会話は同じ日本語とは思えなかった。さっぱりわからない。95%がわからないと言ってもよい。私にも声かけしてくれた。その問いには応えられた。おばさんというよりも「おばあさん」と表現したほうがよいのかもしれないが、そこは遠慮でなく不明のままだ。そのおばさんたち、しゃべるしゃべる。といっても中身はさっぱりわからないのだが、長く居るうちになんとなくわかってくることがある。
 ──わたしらの流されてしまった家は、広かったの。息子の家(都会)みたいな狭いもんでない。仮設はせまいせまい。あんなとこ住むとこではない。でも、(流された家に)わたしのいるところはなかった。ごはんつくって、働いて、お客さんの世話をして、でも、わたしのいるところはなかった。これからは遊びまくってやる。男なんか、いらん。(みんなが大笑いする) もう面倒なんかみてやるもんか。自由にさせてもらう。
 一人いたおじさんはとばっちりをうけ、あらぬ方向をみていた。その気迫を受け、それだけで今ここにいる自分を感じとった。「女三界に家なし」を現実にした。

 「大家族」は「三世代家族」と呼ばれることのほうが多くなった。この変遷は簡単には論じられないが、核家族の社会化を私は支持し受けいれている。戦後、子どもは核家族で育てられてきた。しかし、大家族で育てられてきた過去と比べて、子育てに何が必要で大切だったのか、その多くを置き忘れてきたと私は考えている。

2019.3.18記す

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