子育てとジェンダー ── 擬育10

 私の見ている「赤」とあなたの見ている「赤」とが同じでないとしたら──。何で得たヒントか覚えていないけれど、それは男性が見ている「赤」と女性とでは違う、というものだった。「赤」という言葉は共有できるが、彩度・明度など微妙に違うということだろうか。以来、自分(男)の世界と女性が見えている世界とは違うのだろうかと思うようになった。

 『変化球男子』(ヘネシー作)に触発されて『13歳から知っておきたいLGBT+』(アシュリー・マーデル)を読み、「生物学的性」に支配されている私に気づいた。女性に近い男性もいるし、男性に近い女性もいる。これだけなら驚かない。むずかしい議論になるのでどう説明したらよいか戸惑うが、直線的なグラデーション(スペクトラム)だけでなく、ありとあらゆるそれこそ「みんな違ってみんないい」の世界だ。これ以上、世界を広げないで話を進めよう。そして、このことを前提にして、男性・女性をつかう。
 子を産み、乳を与え・抱き・語り、おむつを替え、遊ぶ。子育ては、男ではなく女に適性があるのでは、という私のベクトルは変わらない。このシリーズ5回目に「男の役割」を書き、3回目でも男女の役割を記した。その脈絡を変えないまま、生物学的性を否定して、「女の子育て」に限りなく近い「男の子育て」があってもおかしくないと考えるようになったことを、記しておきたい。いや!これも直線的思考だ。人それぞれあっていい。
 幼少期の子ども、その男女、かかわるおとなの男女についても同様だ。子育てのクライアントではあるけれど、”自分”とかかわってくれるおとな、あるいは同年齢の友達との関係、それらを2分法の男女でみてしまうことには注意を払う必要があるかもしれない。

2019.6.21記す