子どもの可能性(将来)を改めて考える ── 擬育40

 「子どもの可能性」については、今まで何度も機会あるたびに書いてきている。そもそも「可能性」というが、何を対象にそれを論じるのか。対象が様々だから、場面が色々だから、「機会あるたび」で書くことになるのだろう。
 点Aと点Bを最短距離で線をひいたとき、線分ABという。AまたはBが起点で、AまたはBが終点となる。数学が苦手な方、ごめんなさい。AまたはBを起点とし、終点がないAまたはBを通過する直線を描けば、それは半直線となる。起点も終点もなく、AとBのそれぞれを通過する直線を描けば、その両端は〈無限〉となる。子どもの可能性はこの〈無限〉に等しい。
 では、無限の可能性を実現するにはどうしたらよいだろうか(←この問いかけは論理矛盾だが……) 擬育の連載3回目に記したこと。《両手に、砂を盛る》の実践だろう。これは今更言われてもと思うし、空想にすぎない。精一杯砂を盛り、盛った手を動かさない。動かすと砂がこぼれるから。この地に生まれて、そのときに与えられた天分を伸ばすだけで、よい。

 こんな空想がなんの役に立つのだろう。
 伸び伸びと遊ばせたい。納得ゆくまで、得心ゆくまで遊ばせたい。学校で学ぶ〈学習〉が大切であることを私は否定しない。学習に〈基礎〉という言葉をつかうならば、基礎になる学習は〈遊び〉だろう。だから、〈遊び〉と比較したようなものの言い方で学習とか勉強は空疎になると考える。〈無限〉を保障するのは〈遊び〉と私は思いたい。

2020.8.1記す