子どもの可能性(将来)を改めて考える

 「子どもの可能性」については、今まで何度も機会あるたびに書いてきている。そもそも「可能性」というが、何を対象にそれを論じるのか。対象が様々だから、場面が色々だから、「機会あるたび」で書くことになるのだろう。
 点Aと点Bを最短距離で線をひいたとき、線分ABという。AまたはBが起点で、AまたはBが終点となる。AまたはBを起点とし、終点がないAまたはBを通過する直線を描けば、それは半直線となる。起点も終点もなく、AとBのそれぞれを通過する直線を描けば、その両端は〈無限〉となる。子どもの可能性はこの〈無限〉に等しい。
 では、無限の可能性を実現するにはどうしたらよいだろうか(←この問いかけは論理矛盾だが……) 擬育の連載3回目に記したこと。《両手に、砂を盛る》の実践だろう。これは今更言われてもと思うし、空想にすぎない。精一杯砂を盛り、盛った手を動かさない。動かすと砂がこぼれるから。この地に生まれて、そのときに与えられた天分を伸ばすだけで、よい。

 こんな空想がなんの役に立つのだろう。
 伸び伸びと遊ばせたい。納得ゆくまで、得心ゆくまで遊ばせたい。学校で学ぶ〈学習〉が大切であることを私は否定しない。学習に〈基礎〉という言葉をつかうならば、基礎になる学習は〈遊び〉だろう。だから、〈遊び〉をさげすむ、あるいは学習/勉強とは別物ようなとらえかたでは、学習や勉強は空疎になる。〈無限〉を保障するのは〈遊び〉と私は思いたい。

2020.8.1記す

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